第71話:満月の黄昏、千人の熱気と大講堂
そして――運命の満月の夜が訪れた。
帝都ルミナリアの空は、夕暮れ時から奇跡的なまでの快晴に恵まれていた。
西の空に沈みゆく太陽が、帝都の無数の真鍮製煙突や尖塔を赤銅色に染め上げたのも束の間。東の地平線から昇ってきたのは、見る者を圧倒するほど巨大で真円に近い銀月だった。
大気中に漂う煤煙すら凍りつくような、秋の澄み切った冷気。その冷たく研ぎ澄まされた空気の中、地上へと降り注ぐ青白い月光は、白大理石の舗道やゴシック様式の美術館の屋根を、まるで巨大な劇場の特設ステージのように鮮やかに照らし出していた。
芸術特区の大通りは、日没と共に押し寄せた未曾有の熱狂と緊迫感に包まれていた。
「す、すげえ人だ……! 帝都中の貴族やお金持ちが全員集まってきたみたいだぜ!」
美術館の外周広場。道端の露店の陰で、トビーが泥だらけのキャスケット帽を押さえながら、息を呑んで人波を見上げていた。
シオンの指示により、トビーは広場の安全な一角で街の空気と警備の動きを監視する役目を担っていた。シオンが懐から渡してくれた銀貨で買った熱々の焼き栗の紙袋を抱え、香ばしい湯気を吸い込みながら周囲に目を光らせている。
広場を埋め尽くすのは、漆黒の光沢を放つ数百台の豪奢な馬車の列。毛皮のストールや豪奢な宝石を纏った貴婦人たち、胸に勲章を誇らしげに佩用した貴族や軍の高官たちが、特別展示室で開催される『国宝初公開レセプション』の会場へと吸い込まれていく。
だが、その華やかな社交界の祝祭のすぐ外側には、ハルトマン卿が指揮する帝国憲兵隊二百名が銃剣付き小銃を構えて幾重にも陣を敷き、物々しい威圧感を放っていた。
「シオン殿、各大統領府および警備各班との通信回線が開通しました」
美術館の二階に急遽設置された警備本部。濃紺の正装軍服を隙なく着こなし、白銀の髪をきつく束ねたエルネスタが、真鍮の受話器を置いてシオンに告げた。
シオンは仕立ての良いグレーのスーツの袖口を整えながら、作業台の上に置かれた懐中時計を確認した。
時刻は十九時三十分。犯行予告の二十一時まで、残された猶予はあと一時間半。
「エルネスタ、隣接する『帝都大講堂』の様子はどうなっていますか」
「ギルバート警部から先ほど報告が入りました。……信じられない熱気ですわ。カミーユの奇術講演を見るため、講堂の千席ある座席は完全に満席。ホールの外まで立ち見を求める市民が溢れ返っているそうです」
「千人の観客……。舞台の装置は?」
「ええ。大講堂の天井に備えられた大型の超音波加湿器が、予定通り稼働を始めています。秋の乾燥から魔導楽器を守るためと説明されていますが、会場内には目に見えないほど微細なミストが白く漂い始めているとのこと。……そして演壇の真上には、あの巨大な『薔薇のステンドグラス』が、満月の光を浴びて妖しく輝いていますわ」
エルネスタの報告に、シオンは静かに目を閉じた。
トビーが今朝の食卓で見せてくれた水滴レンズの実験。光の波長と同等のサイズに制御された微細ミストのスクリーン。そして、三階映写室に隠されていたシュミット式凹面鏡と石英光ファイバー――。
満月の夜、月光がステンドグラスの青いガラスを透過し、演壇の中心へとまっすぐに降り注ぐ計算角。
パズルのピースは、すでに完璧に噛み合っていた。
「シオン殿……あなたのお顔、少し青ざめていらっしゃいますか?」
エルネスタがアイスブルーの瞳に微かな心配の色を浮かべ、覗き込んできた。
シオンは小さく苦笑し、ポケットから真鍮の平たい小瓶を取り出した。
「私はただの時計修理工ですからね。これほど国家規模の陰謀の最前線に立たされれば、心臓の振り子の一つや二つは狂いそうになりますよ。……どうぞ、エルネスタ」
シオンは小瓶の蓋を外し、薄緑色をした小さな糖衣錠を二粒、エルネスタの白い掌へと落とした。
指先が触れ合った瞬間、エルネスタの肩がピクリと跳ね、指先に微かな熱が走る。
「これは……?」
「私が独自に調合したペパーミントとレモンバームのドロップです。舌の上でゆっくり転がすと、脳の末梢血管が開き、過度な緊張による心拍数の上昇を抑えてくれます。……あなたも、先ほどからサーベルの柄を握り締めすぎて、指の関節が白くなっていますよ」
「あ……」
エルネスタは気恥ずかしそうに自分の手を見つめ、それからドロップを一粒、薄い唇へと運んだ。
カチリ、と小さな音を立てて舌の上で砕けた瞬間、氷のような冷涼感と爽やかな柑橘の香りが鼻腔を突き抜け、張り詰めていた神経がふわりと解き放たれていく。
「……ふふ。本当に、あなたには敵いませんわね。子供扱いされているようで少し悔しいですが……とても心が澄み渡ります。まるで、あなたの工房の時計の音を聞いている時のように」
エルネスタが浮かべた柔らかな微笑み。その無防備な美しさに、シオンは不意に胸を打たれ、喉の奥を詰まらせながら慌てて視線を逸らした。
彼女のこの笑顔を、誇り高き正義の心を、決して悪党たちの謀略で汚させてはならない。シオンの胸の奥底で、静かで凄まじい決意の炎が燃え上がった。
「ボオオオオオン――!」
その時、美術館の館内スピーカーから、二十時四十五分を告げる予鈴が重々しく鳴り響いた。
同時に、有線電話の受話器からギルバート警部の緊迫した怒鳴り声が飛び込んできた。
『お嬢! シオン君! 大講堂の開演ベルが鳴り響いた! カミーユの野郎が、ステージの大歓声の中へ姿を現しやがったぞ!』
シオンは受話器を耳へと押し当てた。
受話器の向こうから、地鳴りのような千人の大歓声と割れんばかりの拍手が、津波のような音圧となって耳膜を震わせる。
幕は上がった。
世紀の奇術師と、その背後に潜む影の演出家が仕掛ける、光と影の巨大な欺瞞劇が――今、始まろうとしていた。




