第70話:地下修復庫の巨大振り子時計
美術館の豪華絢爛な大理石の回廊を離れ、薄暗く曲がりくねった石造りの階段を地下深くへと下りていく。
一段降りるごとに、空気の湿度が上がり、冷気が肌にまとわりついてくる。
ギルバート警部が掲げるカンテラの灯りが、湿った石壁と真鍮の配管を鈍く照らし出していた。
「この地下エリアは、百年前の帝都建設当時の遺構をそのまま使っておりましてね。かつては王室の地下牢だったとも言われておりますが、今では絵画や彫刻の修復庫として使われてやす」
ギルバートの解説を聞きながら、シオンは壁に這わされた真鍮の空気ダクトに目を留めた。規則正しい微弱な振動音が、金属管を通じて伝わってくる。
「……大型の吸排気システムですね。絵の具の乾燥を防ぐため、常に一定の換気と湿度管理が行われている」
「ええ、その通りです。そして、その管理の中枢が――この部屋でさあ」
地下回廊の最奥。
行く手を塞ぐように立ちはだかっていたのは、厚さ三十センチを超える防魔鋼鉄の金庫扉だった。表面には複雑な歯車仕掛けのダイヤル錠と、内側から落とされる極太の真鍮の閂のレールが刻まれている。
ギルバートが予備の鍵を差し込んで重いハンドルを回すと、プシューッという密閉解除の空気音と共に、分厚い扉がゆっくりと内側へ開いた。
絵画修復庫。
広さは二十畳ほど。窓は一切なく、四方の壁は防湿用のコールタールを塗った厚い石積みで囲まれている。棚には様々な溶剤や亜麻仁油の瓶、豚毛の絵筆、張り替え用のキャンバスが整然と並んでいた。
だが、その部屋の中で何よりも異様な存在感を放っていたのは、正面の壁一面を占拠する巨大な機械構造だった。
「これは……」
シオンの足が、吸い寄せられるように止まった。
高さ三メートルを超える、威容を誇るアンティークの大型天文振り子時計。
真鍮と鋼鉄で組み上げられた壮麗なフレームの奥で、巨大なエスケープメント――ガンギ車とアンクルが、ガチリ、ガチリと重厚な音を立てて時を刻んでいた。
そして振り子の下部には、人間の胴体ほどもある巨大な円筒形の重錘が吊り下げられていた。
「すごい……! こんな巨大な時計、初めて見ましたわ」
エルネスタが感嘆の声を漏らす。シオンはキズミを目に嵌め、時計の基部に近づいた。
「十九世紀初頭、スイスの宮廷時計師が作った最高精度の天文時計です。動力はぜんまいではなく、この重錘の自重による落下エネルギー……。そしてこの重錘、ただの鉛ではありませんね」
「へえ、ベルク館長の話じゃ、温度変化による振り子の伸縮を自動補正するため、内部に水銀が封入された特殊な水銀重錘だそうで」
ギルバートが教えてくれた。重量にしておよそ十五キロ。もしこれが高い位置から落下すれば、人間の頭蓋骨など一瞬で粉砕する凶器となり得る質量だ。
シオンは指先で時計の側面をなぞり、奥の機械構造を透視するように観察した。
重錘を吊り下げるワイヤーは、天井の滑車を経由し、壁に取り付けられた自記式の精密湿度計、そして部屋の通気弁を制御するソレノイドスイッチへと連動していた。
「なるほど。時計の正確な運行に合わせて、一時間ごとに通気弁を開閉し、湿度の記録紙を自動で巻き取る仕組みか。部屋全体が一つの巨大な機械胎内になっている」
「あの強欲な館長め、普段はがめつい癖に、この部屋の設備だけには異常なほど金をかけていたようでさあ。自分以外の職員は滅多に立ち入らせず、修復作業はいつも一人で閉じこもってやっていたとか」
ギルバートの言葉に、シオンの藍色の瞳がスッと細まった。
密閉された空間、内側からしか掛けられない頑丈な閂、そして十五キロの水銀重錘を抱えた巨大時計。
シオンの脳裏で、何かがパチリと音を立てて繋がろうとしていた。
カチリ、ガチリ……。
巨大な時計が刻むリズム。その中に、シオンの耳だけが拾い上げる微細な不協和音が混ざっていた。
「……妙だな」
「シオン殿? 何か気になりますか?」
「アンクルの爪とガンギ車の噛み合わせです。日差零点一秒を誇るはずの宮廷時計にしては、脱進機の動作にわずかな引っかかりがある。……まるで、歯車のピッチが意図的に狂わされているかのような」
シオンがさらに奥を調べようと手を伸ばした、その時だった。
「おいおい! 誰の許可を得て私の聖域に足を踏み入れているんだね!」
甲高いヒステリックな怒鳴り声と共に、修復庫の入り口にベルク館長が姿を現した。顔を真っ赤にし、手にした金時計を握りしめている。
「警察だからといって何でも許されると思うな! ここは貴重な国宝の修復を行う神聖な場所だ! 下町の時計屋風情が汚い手で私の時計に触るんじゃない!」
「ベルク館長、私たちは警備の事前確認を――」
「警備なら上の展示室でやればいいだろう! ここは明日の夜まで完全立ち入り禁止だ! さあ出て行け、今すぐ出て行かんか!」
ベルク館長は半狂乱で三人を押しのけるようにして部屋から追い出すと、バタン! と重い鉄扉を乱暴に閉ざし、内側からガチャンと重い閂を下ろしてしまった。
締め出された三人は、冷え切った地下回廊に取り残された。
「やれやれ、相変わらず神経質な狸親父だぜ」
ギルバートが頭を掻く。
シオンは閉ざされた鉄扉を見つめ、静かに呟いた。
「……エルネスタ」
「はい?」
「あの部屋の巨大時計。明日の夜、何かが起きるとすれば……あの時計の足元ですよ」
地下の湿った暗闇の中で、巨大な歯車の規則正しい鼓動だけが、死の秒読みのように冷たく響き続けていた。




