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クロックワーク・アリバイ 〜裏社会の天才時計技師、自分が作った「鉄壁の不在証明」を法廷で解体する〜  作者: 六井求真


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第68話:トビーの水滴レンズと朝の食卓

ジュウウウウ――ッ! モクモクモク……。

 香ばしいというよりは、明らかに何かが炭化しつつある不穏な刺激臭と白煙が、クロノス堂の一階の台所から立ち上っていた。

 作業台で昨夜の計算式を清書していたシオンは、ペンを握ったままピクリと鼻を動かした。


「……トビー、換気扇のぜんまいを巻いてくれ。煤煙濃度が時計のテンプに悪影響を及ぼすレベルだ」


「おいらじゃないよ親方! 台所にいるの、お姉ちゃんだもん!」


 二階から下りてきたトビーが、目を丸くして台所を指差した。

 シオンが慌てて立ち上がり、台所へ駆け込むと、そこには信じがたい光景が広がっていた。

 朝の澄んだ光が差し込む狭い調理場の中央。

 昨夜の凛々しい軍服姿はどこへやら、白銀の豊かな髪を後ろで雑な三つ編みに束ね、寝起きの気だるさを色濃く残したエルネスタが、鉄のフライパンを両手で必死に握りしめていた。

 しかもその身にまとっているのは――昨夜、部屋のタンスに置いてあったシオンの替えの作業用白シャツだった。

 身長百八十センチ近いシオンのシャツは、小柄で細身なエルネスタにはあまりにも大きすぎた。肩のラインは大きく落ち、袖口は二度も三度も折り返され、裾は太ももの半ばまで届いている。首元は無防備に開き、透き通るような鎖骨と白い素肌が朝の光にさらされていた。


「ひゃっ!? ひ、火が……! 火力が強すぎますわ! シオン殿、油が跳ねて……っ!」


「火を弱めなさい、エルネスタ! 鉄鍋を空焚きにしてどうするんです!」


 シオンは素早く彼女の背後から手を伸ばし、ガスの元栓を絞ると、フライパンを火から外した。

 二人の距離が一瞬でゼロになる。シオンの胸板がエルネスタの華奢な背中に触れ、彼の腕が彼女の体を包み込むような体勢になった。

 エルネスタの首筋に、シオンの温かい吐息がふわりとかかる。


「あ……っ」


 エルネスタの体が硬直した。フライパンから上がる煙よりも早く、彼女のうなじから耳たぶ、そして両頬へと、猛烈な紅潮が広がっていく。


「怪我はありませんでしたか? ……それにしても、一体何を作ろうとしていたのです」


「……た、卵焼きですわ……。居候させていただく以上、朝食くらいは私が用意しようと……」


 フライパンの底には、黒々と炭化した謎の物体が張り付いていた。

 シオンは呆れたように息を吐き、エルネスタの手からフライパンを優しく取り上げた。


「お気持ちだけ受け取っておきます。包丁やフライパンの扱いは、どうやら時計の歯車よりも難解なようですね。……そこに座っていてください。朝食は私が作ります」


「うぅ……申し訳ありません……」


 しゅんとうなだれる令嬢の頭に、シオンは苦笑しながら手を伸ばしかけ、慌てて引っ込めた。

 シオンは手際よく鉄鍋を洗い、上質のバターを落とすと、卵四個を手早く溶いてフライパンへ流し込んだ。菜箸をリズミカルに動かし、わずか数分で、黄金色に輝くふわふわのスクランブルエッグと、香ばしく焼き上げた厚切りベーコンを皿へと盛り付ける。

 トースターからは、カリッと焼き上がったライ麦パンの香ばしい匂いが漂ってきた。


「わあーっ! やっぱり親方の料理は最高だ!」


 トビーが歓声を上げ、木製の丸テーブルに三人分の皿とフォークを並べる。

 食卓に着いたエルネスタは、恐る恐るスクランブルエッグを一口運んだ。

 バターの芳醇なコクと、卵の優しい甘みが舌の上でとろける。


「……美味しい。外は香ばしいのに、中は信じられないほど滑らかですわ。シオン殿、あなた本当に時計屋ですの?」


「時計師は熱伝導と時間管理の専門家ですからね。フライパンの温度を百六十度に保ち、余熱の対流時間を秒単位で計算すれば、誰でもこれくらいは作れますよ」


「それを一般人は『料理の腕』と呼ぶんだよ、親方」


 トビーが口いっぱいにパンを頬張りながらツッコミを入れた。三人で囲む朝の食卓は、昨夜までの緊迫感が嘘のように穏やかで、温かな空気に満ちていた。

 やがて食事が一段落した頃、トビーがポケットから小さなガラスの破片とスポイトを取り出した。

 水差しから吸い上げた水を、ガラスの上にポトリと一滴落とす。


「見て見て、お姉ちゃん! こうやって水滴を丸く落とすとさ、新聞の小さな文字がでっかく見えるんだぜ!」


「まあ……本当ね。虫眼鏡のレンズのようになっているのね」


 身を乗り出したエルネスタが、感心したように目を細めた。

 トビーはさらに調子に乗り、窓辺から差し込む朝の光に向けてガラス片を傾けた。水滴の縁を透過した光が、白いテーブルクロスの上に、鮮やかな虹色の帯を落とす。


「ほら、虹だ! 太陽の光って、透明に見えるのに、水の中を通ると赤とか青とかに分かれちゃうんだよ! 不思議だよね!」


 トビーの無邪気な声に、シオンのフォークを持つ手がピタリと止まった。

 シオンはテーブルクロスの上に落ちたプリズムの光を、吸い込まれるように見つめていた。

 微細な水滴。光の屈折率。そして、波長による光の分散――。


「……水滴レンズ、か」


「シオン殿? 何か気付かれましたか?」


 エルネスタが首を傾げた。その瞬間、彼女が身を乗り出したことで、シオンのシャツの第二ボタンが外れ、胸元の白い谷間が露わになった。

 シオンはハッと我に返り、慌てて視線をテーブルの端へと逸らした。


「い、いえ……何でもありません。それよりエルネスタ執行官、その……シャツのボタンが」


「え? ……きゃあっ!?」


 エルネスタは自分の胸元を見下ろすなり、甲高い悲鳴を上げて両手で襟元をきつくかき抱いた。耳の先どころか首筋まで真っ赤に沸騰している。


「み、見ましたわね!? 破廉恥ですわ、シオン殿!」


「見ていません! 注意を促しただけです!」


「見ていなければボタンが外れていることなど分からないはずです! この好色時計師!」


「理不尽すぎる……!」


「あははは! 親方の顔も真っ赤だーっ!」


 トビーが腹を抱えて大笑いした、まさにその平和な瞬間だった。

 ガランガランガランッ!!

 工房の真鍮ドアベルが、壊れんばかりの激しさで乱打された。

 同時に、重い扉が勢いよく蹴破られるように開き、冷たい朝風と共に、息を切らしたギルバート警部が転がり込んできた。


「お、お嬢! シオン君! 大変だ、いますぐ美術館へ来てくれ! 特捜監査官のハルトマン卿が、憲兵隊を率いて乗り込んできやがった!」

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