第67話:突撃! 氷の令嬢の居候宣言
「……は?」
シオンの口から、珍しく間の抜けた声が漏れ出た。
夜霧が足元を這う工房の玄関口。巨大な旅行鞄を二つ携え、頬を紅潮させて仁王立ちするエルネスタ。その後ろでは、目をパチクリとさせたトビーが「ええっ!? お姉ちゃん、お泊まり!?」と叫び声を上げていた。
「ちょ、ちょっと待ってください、エルネスタ執行官。滞在とは……ここに泊まるということですか?」
「言葉通りの意味ですわ、シオン殿!」
エルネスタは懐から、紫色の公印が押された分厚い書類をビシッと突き出した。
「帝国刑事訴訟規則第八十七条、重要参考人および標的対象者に対する緊急保護拘束規定です。あなた宛てに届いた『影の演出家』からの犯行予告、そして先ほど警察本部に届いた情報によれば、特捜監査官のギュスターヴ・ハルトマン卿が、あなたを『怪盗の共犯者』として事前拘束しようと動き始めています」
「ハルトマン卿……貴族院直属の、あの冷酷な監査官ですね」
「ええ。あの男に先を越されてあなたを警察の地下牢に放り込まれれば、満月の夜までに真相を暴くことなど不可能になります。ですから――私が『特別監視』という名目で、二十四時間体制であなたを法的に確保するのです。これならハルトマン卿も手出しはできません!」
早口で捲し立てるエルネスタ。その瞳は極めて真剣で、シオンを守ろうとする強い正義感に満ちていた。
だが、シオンは額に手を当て、深くため息をついた。
「趣旨は理解しました。しかし……見ての通り、ここは下町のうらぶれた時計修理工房ですよ。貴族のお屋敷のような客間もなければ、シルクのベッドもありません。あるのは埃と機械油、そして二階の狭い物置部屋の藁ベッドだけです」
「も、問題ありません! 私は帝国軍学校の野営訓練で、泥水すすりながら天幕で三週間過ごした経験もあります! 藁ベッドなど贅沢品ですわ!」
「いや、そういう問題では……」
「とにかく、決定事項です! トビー君、荷物を運ぶのを手伝ってくださる?」
「はーい! お姉ちゃん、こっちこっち! 階段急だから気をつけてね!」
トビーは嬉々としてエルネスタのトランクの一つを引っ張り、ギシギシと軋む木製階段を駆け上がっていった。エルネスタも自ら重い鞄を持ち上げ、軍靴を脱いで用意されたスリッパへと履き替える。
シオンは制止する間もなく、我が物顔で階段を上がっていく令嬢の後ろ姿を呆然と見送るしかなかった。
「……やれやれ。嵐のような人だ」
二階の物置部屋。
普段は使われていない小さな部屋には、古びた真鍮のベッドフレームの上に藁を詰めたマットレスが敷かれ、壁には小さな丸窓が一つあるだけだった。
トビーが手際よく埃を払い、シオンが持ってきた清潔な木綿のシーツを広げる。
「どうですか、お嬢さん。やはり公爵家の方が寝るような場所では……」
「素晴らしいですわ! 木の温もりがあって、とても落ち着きます!」
エルネスタは無理に胸を張り、ベッドの端に腰を下ろした。
ギシッ、ギシギシッ――!
古いスプリングが不穏な軋み音を立て、マットレスが大きく沈み込む。
「きゃっ!?」
エルネスタは弾かれたように飛び起き、壁に背中を打ちつけそうになった。シオンが咄嗟にその腕を支える。
「大丈夫ですか? だから言ったでしょう、スプリングがかなり傷んでいると」
「だ、大丈夫です……! ただ、少し反発力が予想外だっただけで……っ!」
支えられた腕の温もりに、エルネスタはハッと息を呑み、慌ててシオンの手から離れた。耳の先端まで真っ赤に染まっている。
その様子をニヤニヤしながら見ていたトビーが、シオンの服の裾を引っ張って小声で囁いた。
「ねえマスター。お姉ちゃんさ、本当は監視なんかじゃなくて、マスターと一緒にいたいから来たんじゃないの?」
「トビー、あとで歯車の歯磨き百個言いつけるぞ」
「ひえっ、ごめんなさい!」
トビーが蜘蛛の子を散らすように階段を駆け下りていく。
部屋に残された二人の間に、何とも言えない甘く気まずい沈黙が落ちた。壁掛け時計のコチコチという音だけが、やけに大きく響く。
「……シオン殿」
「はい」
「その……迷惑でしたでしょうか。私がこんな風に押し掛けてきて」
俯いたエルネスタが、トレンチコートの裾を小さな指先でギュッと握りしめていた。いつもの凛々しい執行官の鎧を脱ぎ捨てた、ひどく脆く、傷つきやすい少女の姿。
シオンはふっと表情を和らげ、静かに首を振った。
「迷惑などではありませんよ。……ハルトマン卿から私を守るために、ご自身の立場まで危うくしてくださったこと、感謝しています」
「……っ」
「ただ、風邪をひかれては困ります。階下から薪ストーブの温風を引くダクトを開けておきますから、今夜は暖かくして休んでください。明日は、カミーユの大講堂の調査が待っています」
シオンが穏やかに微笑んで一礼し、部屋のドアノブに手をかけた時だった。
「シオン殿!」
呼び止められて振り返ると、エルネスタはポケットから、小さな銀色の懐中時計を取り出していた。
第1章でシオンが修理した、亡き母の形見の時計。
彼女はそれを両手で大事そうに包み込み、恥ずかしそうに、しかし真っ直ぐにシオンを見つめた。
「この時計……今も、一秒も狂わずに動いています。……私の命も、この時計と同じです。あなたになら、預けられますわ」
夜の帳が下りた小さな部屋で、二人の視線が静かに重なり合った。
チク、タク、チク、タク――。
時を刻む二つの鼓動が、狂いのない正確なリズムで、確かな熱を帯び始めていた。




