第66話:失われた光学ノートの影
その日の深夜。
帝都ルミナリアは深い静寂に包まれ、冷たい秋の霧雨が『真鍮小路』の石畳を黒く濡らしていた。
クロノス堂の工房には、作業机の上に置かれた一台のオイルランプだけが、頼りなげな橙色の光を投げかけていた。
壁という壁を埋め尽くす百以上の古時計たちが、重低音のチクタクという秒針の音を刻み続けている。その不規則でありながら調和のとれた機械の心音の中で、シオンは一人、樫の木の作業台に向き合っていた。
「……偏光結晶の厚みが零点五ミリ、屈折率が一・六五八。ナトリウムD線の波長五百八十九ナノメートルに対し、位相差を二分の一波長にするための回転角は……四十五度、か」
シオンは白紙のスケッチブックに、計算尺と羽ペンを猛烈な速度で走らせていた。
数式、幾何学的な光路図、凸レンズと凹面鏡の焦点距離の計算。
インク壺から黒い液を吸い上げたペン先が、カリカリと小気味よい摩擦音を立てながら、緻密な幾何学模様を紡ぎ出していく。
引き出しから盗み出された恩師クラウスとの共同研究ノート――そこに記されていた理論を、シオンは自らの脳裏に刻まれた記憶の引き出しから、一言一句違わずに紙の上へと蘇らせていた。
光を曲げるのではない。光の波長を揃え、直交する偏光板によって特定の成分のみを遮断する。人の目は、暗闇を見た時に黒を感じるのではない。光のシグナルが網膜の視細胞に届かない時、そこにあるものを『背景と同化した空白』として都合よく認識してしまうのだ。
あの展示ケースの上部に設置されていたナトリウムランプ。あれは退色防止の照明などという生易しいものではない。単一の波長だけを放射することで、光の干渉縞を極限まで単純化し、偏光迷彩の効果を百パーセント引き出すための、計算され尽くした舞台装置だった。
「親方……まだ起きてたの?」
工房の奥、階段の軋む音と共に、眠そうに目を擦りながらトビーが下りてきた。手には湯気を立てる二つのマグカップ。
「眠れないのか、トビー」
「うん。なんか外の霧が深くて、時計の音がいつもより大きく聞こえてさ。……これ、練乳を入れたホットミルク。親方も少し休みなよ。昼間っからずっと紙とにらめっこしてるじゃないか」
トビーが差し出したマグカップから、甘く香ばしいミルクの湯気が立ち上る。シオンはペンを置き、カップを受け取って口をつけた。優しい温もりと濃厚な甘みが、酷使されていた脳の疲労をじんわりと解きほぐしていく。
「ありがとう、トビー。身体が温まるよ」
「へへっ、どういたしまして! ……ねえ親方、本当に絵が消えちゃうのかな? あんな大きな美術館で、警察のお巡りさんたちがいっぱい見張ってるのにさ」
トビーが作業台の端に腰掛け、不安そうに尋ねてきた。シオンは少年の乱れた前髪を優しく撫でた。
「手品師がコインを消すのと同じだよ、トビー。コインが本当に消滅しているわけではない。観客の注意を右手へ引きつけ、左手でポケットへ落としているだけだ。……だが今回の相手は、コインではなく巨大な絵画を消そうとしている。そのためには、観客全員の『視覚の焦点』そのものを奪う大掛かりな仕掛けが必要になる」
「視覚の焦点……?」
「光は波だ。水面に広がる波紋と同じように、障害物に当たれば曲がり、重なり合えば打ち消し合う。……十年前、私にそれを教えてくれたのは恩師クラウスだった」
シオンの視線が、作業台の隅に置かれた小さな真鍮の歯車へと落ちた。
十年前のあの大火災。帝都の中心で天を突いていた大時計塔クロノスが、突如として紅蓮の炎に包まれた夜。
煤煙が渦巻き、巨大な鐘楼が軋みを上げて崩落していく地獄の中で、恩師クラウスは血を流して倒れていた。
その傍らに立ち、燃え盛る火の粉を浴びながら冷酷な笑みを浮かべていた兄弟子フェリクス・アルノーの姿。
『シオン、時計とは時間を測る道具ではない。人間の愚かな運命を、正確無比に狂わせるための劇場なのだよ』――そう言い残し、フェリクスは失われた設計図と光学ノートを抱えて闇へと消え去った。
フェリクスにとって、精密な物理学も時計工学も、すべては人間を欺き、操り、絶望へと突き落とすための脚本の道具にすぎない。
だが、シオンにとっては違っていた。
時計の歯車が刻む規則正しい鼓動は、冷たい世界の中で人が正気を保ち、愛する者と共に生きるための、唯一の灯火なのだ。
「親方……?」
「いや、昔のことを思い出していただけだ。……心配いらないよ、トビー。どんな巧妙な仕掛けであろうと、物理の法則を越えることはできない。時計師の誇りにかけて、この街で再び誰かの命や時間を奪わせたりはしない」
シオンが力強く呟いた、まさにその瞬間だった。
ドンドン、と工房の真鍮ドアが控えめに、しかし切迫したリズムで叩かれた。
トビーが「ひっ」と肩を竦める。深夜一時を回ったこの時刻に、下町の時計工房を訪ねてくる者などいるはずがない。
シオンは静かに立ち上がり、腰のホルダーから真鍮のドライバーを抜き取って袖に隠すと、音もなく玄関へと歩み寄った。
「どなたですか」
「……シオン殿。私です、開けてくださらないかしら」
扉の向こうから聞こえてきたのは、冷たく澄んだ、しかし酷く躊躇いがちな女性の声だった。
シオンは目を見張り、閂を外して重い扉を引き開けた。
秋の夜霧が渦巻く闇の中、街灯の淡い光を浴びて立っていたのは――エルネスタだった。
だが、その姿は昼間の凛々しい軍服姿とはまるで違っていた。
濃紺のトレンチコートに身を包み、マフラーを目深に巻き、その足元には――大人の腰ほどもある巨大な革張りの旅行鞄が二つ、ドカンと置かれていた。
「エルネスタ執行官……? こんな夜更けに、一体その大荷物は……」
シオンが唖然として問いかけると、エルネスタはマフラーを引き下げ、夜風の寒さだけではない赤みを帯びた顔で、毅然と言い放った。
「帝国法務執行令状に基づき、通告します。……本夜より事件解決までの間、私はこの工房に滞在し、あなたの身辺警護および監視を行います!」




