第64話:帝都中央美術館と、強欲の館長
帝都中央区・芸術特区。
下町の煤煙と騒々しさが嘘のように消え去り、白大理石の瀟洒な舗道と手入れの行き届いた菩提樹の並木がどこまでも続く貴族の街路を、一台の黒塗り警察馬車が滑るように進んでいた。
車内には、濃紺の軍服に身を包んだエルネスタと、仕立ての良いグレーの三つ揃えスーツを着たシオン。普段の作業着から一転、理知的な仕立てのスーツを身に纏ったシオンの姿に、エルネスタは時折、居心地悪そうに視線を泳がせていた。
「……シオン殿。そのスーツ、よくお似合いですわね」
「ええ、ジュリアンの事件の報酬で新調したものです。貴族街の敷居を跨ぐのに、煤だらけのエプロンでは門前払いを食らいますから」
「ふふ、形から入るのも捜査官の心得ですわ。……ですが、先ほどの下町での険しい顔より、いつもの皮肉屋の顔に戻って安心しました」
エルネスタがふっと柔らかな笑みをこぼす。シオンはそのアイスブルーの瞳の奥にある気遣いを感じ取り、小さく会釈を返した。
やがて馬車は、巨大なゴシック様式の偉容を誇る建造物の前で停車した。
『帝都中央美術館』。
百年の歴史を誇る石造りの回廊、天を突く尖塔、そして正面玄関には重武装の帝国憲兵隊がバリケードを築き、物々しい警備体制が敷かれていた。
「おお、お嬢! お待ちしておりましたぞ!」
馬車のステップを降りると、待ち構えていた初老の男が駆け寄ってきた。
擦り切れたトレンチコートを着込み、口元に無精髭を生やした叩き上げの刑事、ギルバート警部だ。第1章のバローニ邸の捜査でもエルネスタを手足となって支えた忠臣である。
「警部、現場の状況は?」
「ええ、展示室は完全に封鎖しております。例の予告状が発見されて以来、館内は蜂の巣をつついたような大騒ぎでさあ。……特に、あの館長が」
ギルバート警部がうんざりしたように肩をすくめた。
案内に従い、重厚な青銅の扉を抜けて二階の特別展示室へ向かう。高いドーム天井から淡い秋の光が差し込む広大な円形ホールの中央に、厚さ五センチの特注防弾防魔ガラスケースが鎮座していた。
ケースの奥、ビロードの布の上に飾られているのは、縦一メートル、横八十センチほどの油彩画。
帝国国宝『黄昏の幻影画』。
夕闇が迫る古代の廃墟の中、朽ちかけた王座に腰掛ける美貌の王女が描かれている。絵の具の退色を微塵も感じさせない鮮烈な色彩、光と影の圧倒的なコントラストは、見る者の魂を吸い寄せるような不気味な魔力を放っていた。
「おいおい! 警察の連中は何をやっているんだ! 下町の薄汚い時計屋などを神聖な美術館に招き入れるとは、帝国の治安維持はどうなっているのかね!」
甲高い、神経質な怒鳴り声が静寂なホールを切り裂いた。
歩み寄ってきたのは、豪奢な毛皮付きの外套を羽織った小太りの初老の男。
エルネスト・ベルク。五十八歳。帝都中央美術館の館長であり、元宮廷絵画修復師として社交界に隠然たる影響力を持つ人物だ。
ベルクは丸眼鏡の奥からシオンを舐めるように見下し、手にした金時計の竜頭をカリカリと苛立たしげに何度も巻き直した。
「ベルク館長。シオン殿は、我が法務執行局が正当な手続きを経て招聘した特別技術顧問です。失礼な言動はお慎みください」
エルネスタが一歩前に出ると、その冷気すら孕んだ威厳に、ベルク館長はわずかにたじろいだ。しかしすぐに傲慢な態度を取り戻し、鼻を鳴らす。
「ふん、公爵令嬢の道楽に付き合わされるこちらの身にもなってほしいものだ。いいかね、この『黄昏の幻影画』は、滅亡した古代王朝の秘宝のありかが記されているとされる百億円の国宝だ! もし傷一つでもつけば、警察上層部の首がいくつ飛ぶか分からんぞ!」
「館長、この展示ケースの仕様について伺いたい」
シオンは館長の無礼を気にも留めず、静かにガラスケースの前に歩み寄った。
「見ての通り、帝都のドワーフ工房に特注した防魔鋼鉄のフレームに、五層構造の防弾ガラスだ。鍵は私が持つこのマスターキー一本のみ。複製は絶対に不可能。さらに上部を見たまえ」
ベルクが得意げに天井を指差した。
ケースの真上には、真鍮の特殊な傘に覆われた大型の照明器具が設置されていた。管の中央で、淡く黄色い光が灯っている。
「絵画の顔料を紫外線から守るため、特注の単色光ナトリウムランプを採用している。熱も持たず、光の波長も極めて安定している。泥棒がガラスを切ろうが、魔導で焼き切ろうが、この部屋のどこから侵入しようと警報が鳴る仕掛けだ。……『千人の観客の前で盗む』など、ただのペテン師の戯言に決まっている!」
シオンはガラスケースの縁に顔を近づけ、キズミを取り出してガラスの接合部をミリ単位で観察した。
そして、天井のナトリウムランプと、ケースの内部に張られた黒いベルベットの天幕を見比べ、静かに口を開いた。
「……完璧な守り、ですか。しかし館長、光というものは、遮断しようとすればするほど、別の隙間を生み出すものですよ」
「何だと……?」
「このガラスの表面、特殊な結晶コーティングが施されていますね。そして、このナトリウムランプの単一波長……。ある特定の角度から光を干渉させれば、人の網膜には『完全な透明』として錯覚させることが可能です。つまり、ケースを破ることなく、絵画だけを消失させることができる」
「ば、馬鹿な! 何をデタラメを!」
ベルクの顔色が一瞬で蒼白になり、金時計を握る手が激しく震えた。
シオンの鋭い藍色の瞳が、ベルクの動揺を逃さず捉える。
この館長は、ただ怯えているのではない。何か別の――絵画が消えることに対して、知られてはならない秘密を抱えているような、異様な後ろめたさがあった。
「パチ、パチ、パチ――」
その時、展示室の入り口から、皮肉めいた緩やかな拍手の音が響き渡った。
「素晴らしい観察眼だ、時計屋の旦那。凡庸な警察の犬どもとは、目の付け所が違うようだね」
振り返ったシオンたちの視線の先、回廊の影から、シルクハットを目深に被った華麗な青年が優雅に姿を現した。




