第63話:銀のペンで記された挑戦状
チク、タク、チク、タク――。
金属とルビーの軸受けが擦れ合う微細な摩擦音と、規則正しい振り子の反響が、薄暗い工房の空気を満たしていた。
帝都ルミナリアの東部、下町の煤煙と埃が淀む職人街『真鍮小路』。その最奥にひっそりと佇む時計工房『クロノス堂』の朝は、いつものように真鍮と鯨油、そして淹れたてのアッサム茶葉の香りから始まっていた。
樫の木の頑丈な作業台に腰掛け、シオンは右目に真鍮製のキズミを嵌めていた。左手のピンセットで極細のヒゲゼンマイを固定し、右手の修正ヘラで髪の毛の十分の一ほどの微小な歪みを正していく。
数日前、バローニ侯爵邸で起きた密室毒殺事件と、青年貴族ジュリアンが持ち出した不在証明の偽装――あの息詰まる法廷論戦を乗り越えた今も、シオンの日常は何一つ変わっていなかった。
「……よし。偏心は完全に解消されたな」
シオンがキズミを外し、細い息を吐き出した、その時だった。
カランコロン、と澄んだ真鍮のドアベルが鳴り響いた。
湿った秋の朝霧と共に工房へと滑り込んできたのは、乱暴な配達人でも近所の酔客でもない。革の長靴が石畳を踏み締める、規律正しく凛とした足音だった。
「ごめんください。……朝早くから申し訳ありません、シオン殿」
透き通るような白銀の長髪を後ろで束ね、濃紺の特注軍服を隙なく着こなした女性が、静かに佇んでいた。
エルネスタ・ヴァレンタイン。
帝国法務省の特命法務執行官であり、法曹貴族の頂点に君臨するヴァレンタイン公爵家の令嬢。その氷のように冷徹な眼差しと卓越した剣技から、帝都の警察や犯罪者たちから『帝都の白薔薇』『氷の令嬢』と恐れられている女性だ。
だが、今の彼女のアイスブルーの瞳には、かつてシオンに向けられていた刺すような敵意は微塵もなかった。
「わーっ! 氷のお姉ちゃんがまた来た! 親方、早く昨日買った上等のビスケット出して!」
台所からトビーが泥だらけのエプロンを揺らしながら飛び出してきた。十二歳の弟子兼看板息子は、エルネスタを見るなり人懐っこい笑顔を弾けさせる。
「こ、氷のお姉ちゃんではありません! 私は公務で訪れたのです、トビー君! ……それに、ビスケット目当てではありませんからね!」
エルネスタは形の良い眉をわずかに寄せ、軍服の襟元を正しながら、ほんのりと白い頬を朱に染めた。凛々しい執行官の仮面の下から覗く、年相応のウブな素顔。シオンは苦笑しながら、作業台の上の工具を布で覆った。
「失礼しました、エルネスタ執行官。トビー、棚の真鍮ポットでお湯を沸かしなさい。……それで、執行官殿が自ら下町まで足を運ばれるとは、ただの世間話というわけではなさそうですね」
シオンが椅子を勧めると、エルネスタは姿勢を正して腰掛け、手袋を嵌めた指先で胸元の革鞄から一通の封筒を取り出した。
漆黒の高級羊皮紙。縁取りには銀色の細工が施され、封蝋には見たこともない紋章――歯車と砂時計を仮面が呑み込む意匠が刻印されていた。
「今朝未明、帝都中央区の芸術特区にある『帝都中央美術館』の特別展示室で発見されたものです。厚さ五センチの防弾防魔ガラスケース――来週から初公開される予定の帝国国宝『黄昏の幻影画』のケースの縁に、挟み込まれていました」
エルネスタの手から封筒を受け取り、シオンはまずその紙の重みと匂いを確認した。
煤けたランプの灯りの下、封筒から引き出された一枚の黒いカード。そこには、銀色のインクで流麗かつ傲慢な筆致が躍っていた。
『親愛なる帝都の警察諸君、ならびに下町の時計技師シオン殿。
来たる満月の夜――千人の観客の眼前、完全なる監視のただ中において、この幻影の絵画をいただく。
千人の目が証言する鉄壁の不在証明を、貴殿の手で解体できるか……見事、証明してみせたまえ。
――影の演出家』
シオンの藍色の瞳が、冷たく細められた。
指先が微かに銀のインクの表面をなぞる。
「……インクの乾き具合から見て、書かれたのは昨夜の深夜二時前後。銀色の顔料には、舞台化粧用の雲母粉が微量に混ぜられている。そして何より、この宛名だ」
「ええ。警察庁に対する単なる劇場型の売名予告なら、下町の時計技師であるあなたの名など書くはずがありません。……この『影の演出家』と名乗る人物は、あなた個人を名指しで標的にしている」
エルネスタの声に、隠しきれない緊張が滲んでいた。
ジュリアンの事件の背後にいた、あの謎の男。シオンがかつて仕込んだはずの『時間偽装』の知識を完璧に把握し、裏社会で糸を引いていた怪物の影が、今まさに帝都の表舞台へと姿を現そうとしていた。
「シオン殿、心当たりはありませんか? あなたの過去、あるいは……その腕前を知る人物に」
シオンはすぐには答えなかった。
立ち上がり、作業台の右端にある三重ロックの引き出しへと歩み寄る。真鍮の鍵を差し込み、慎重にシリンダーを回した。
引き出しが開き、シオンの指先が奥の分厚い革表紙のノートへと伸びる。十年前、帝都大時計塔の崩壊と共に失われたはずの旧機構図面――その隣に並んでいたはずの、もう一冊の記録帳。
シオンの息が、わずかに止まった。
「……ない」
「え?」
「十年前、恩師クラウスと共に研究していた『偏光スリットとシュミット式反射光学』の覚書ノート……それが、一冊だけ抜き取られている」
鍵穴の真鍮の縁に、極めて微細な擦り傷が残されていた。数ヶ月前、何者かが極小のピックを使ってこの引き出しを開け、ノートだけを持ち去っていたのだ。
十年前の炎熱と、崩れ落ちる巨大歯車の轟音。そして、背後から恩師を刺し、図面を奪い去っていった『仮面の男』の姿が、シオンの脳裏に鮮烈に蘇る。
「奴だ……。奴は私の計算式を使って、満月の夜に絵画を消し去る気だ」
「シオン殿……?」
シオンの張り詰めた横顔を見て、エルネスタが息を呑んだ。普段は飄々として皮肉めいた笑みを浮かべている青年が、見たこともないほど冷徹で、哀しい炎を瞳に宿していた。
「エルネスタ執行官。予告された満月の夜まで、猶予はあと何日ありますか」
「……今日を含めて、三日です」
「分かりました。その挑戦、時計職人の意地に賭けて引き受けましょう。人の目を欺く幻影など、歯車と光の連立方程式にすぎない。すべて、解体してみせます」
ボオオオオオオン――。
帝都の中央鐘楼から、午前九時を告げる重々しい鐘の音が響き渡った。
冷たい霧雨の彼方で、巨大な運命の歯車が再び、ギチギチと軋みながら回転を始めていた。




