第62話:カチリと刻まれる新たな時~帝都に響く大時計の鐘と、第2章への予兆~
夜八時三十分。
下町・真鍮小路の静寂を取り戻した『クロノス堂』の工房内には、大小さまざまな古時計たちが刻む、心地よいチクタクという規則正しい不協和音が静かに満ちていた。
作業机の上の真鍮製オイルランプが、温かな黄金色の光を投げかけ、部屋の隅の影を優しく照らしている。
部屋の片隅の長椅子では、一日中泣いて笑って疲れ果てたトビーが、毛布にくるまって「すぅ……すぅ……」と無防備で幸せそうな寝息を立てていた。
机の上には、トビーが寝る前に淹れてくれた、冷めかけのアッサムティーのマグカップが置かれている。
シオンはカップを手に取り、微かに残る渋みと温もりを喉へと流し込むと、ふっと穏やかに息を吐いた。
「……さて」
シオンはマグカップを置き、作業机の天板の上に視線を落とした。
そこには――先ほど警察本部の演壇で、ジュリアンの衣服から零れ落ち、押収された後にシオンの手元へと戻ってきた、あの小さな金属部品が置かれていた。
直径約四センチメートル。
青銅真鍮の冷徹な輝きを放つ、【108歯の真鍮歯車】。
シオンは白手袋を両手に嵌めると、首から提げた細いチェーンの鍵を、作業机の最下段にある頑丈な真鍮シリンダー錠の鍵穴へと差し込んだ。
カチャリ、と重厚な金属ラッチが外れる音が響く。
引き出しの奥深くに長年封印されていたのは、防湿用の油紙に包まれた、一束の古い羊皮紙だった。
シオンは息を潜め、その羊皮紙を机の上に慎重に広げた。
煤で端が黒く焦げ、十年前の炎の熱で波打ったその巨大な機構図面。
表題には、かつて帝都工科学アカデミーを揺るがした伝説の文字が、力強いインクで記されていた。
――『帝都大時計塔クロノス・原初機構全体設計図』。
恩師クラウス・アルベルト技師が、自らの全知全能を注ぎ込んで遺した、世界にただ一枚しか存在しない大時計の心臓部の設計図だった。
シオンの視線は、図面の最深部――数百の歯車列が複雑怪奇に集束する、幾何学的な「結節点」へと注がれた。
その場所には――かつて大時計塔が放火されたあの日、犯人によって乱暴に切り抜かれ、強奪されたことによって生じた、直径四センチメートルのぽっかりとした「空白の円」が存在していた。
シオンは震える指先で、机の上の【108真鍮歯車】をそっとつまみ上げた。
そして――十年の長きにわたり失われていたその空白の円の中心へと、慎重に、静かに降ろしていった。
――カチリ。
金属と羊皮紙が触れ合う、小さな、だが絶対の確信に満ちた音が工房に響いた。
胸を震わせる完璧な奇跡。
歯車の外周に刻まれた百八枚の特殊インボリュート歯形が、図面に引かれた精密な幾何学曲線と――寸分の狂いもなく、完璧に重なり合ったのだ!
中心の軸穴の周囲に刻まれた『星と砂時計』のエングレービングが、十年の時を超えて、設計図の朱色のサインと完全に一致した。
「……やはり、そうだったのか」
シオンの琥珀色の瞳の奥に、青白く、静かで凄まじい決意の炎が灯った。
「ジュリアンを操り、私に偽装工作を依頼させた『影の演出家』……。貴様は、十年前の大時計塔炎上事件の夜、師クラウスを背後から刺し、この歯車を奪い去った真犯人そのものだな」
演出家は、なぜジュリアンにこの歯車を持たせたのか。
それは偶然の紛失などではない。
シオンが法廷でジュリアンのアリバイを解体することをも見越し、自らの存在を示す「宣戦布告のチェスの駒」として、現場に投げ込んできたのだ。
『私はここにいる。奪われた時間を、取り戻しに来るがいい』――と。
「受けて立ちましょう」
シオンは歯車をそっと撫で、低く呟いた。
「時間を支配し、人の運命を弄ぶ悪魔……。どんな巨大な闇であろうと、私は時計職人の誇りにかけて、あなたのすべての脚本を解体してみせる」
ボオオオオオオン…………。
その瞬間、帝都の中央にそびえ立つ大時計塔の巨大な鐘楼から、夜九時を告げる重厚で荘厳な鐘の音が響き渡った。
低く唸るようなその響きは、冷たい夜風に乗って帝都全土を震わせ、下町の屋根を越え、貴族街の大理石の館を越え、漆黒の夜空へとどこまでも広がっていく。
それは――一つの事件の幕引きを告げる鐘の音であると同時に。
過去の哀しみを乗り越え、真実を暴くための、新たな運命の歯車が回り始めた合図だった。
――だが、その同じ時刻。
帝都中央区・芸術特区にそびえ立つ、荘厳なるゴシック建築の殿堂『帝都中央美術館』。
閉館後の完全な静寂と闇に包まれた、二階の特別展示室の回廊に、コツン、コツンと革靴の冷たい足音を響かせる人影があった。
黒い光沢を放つ上等なシルクのマントを翻し、顔の上半分を銀色の仮面で覆い隠した長身の男。
男は、スポットライトに照らされた厚さ五センチの防弾防魔ガラスケースの前で足を止めた。
ケースの奥に展示されているのは、来週の式典で初公開される予定の、帝国国宝『黄昏の幻影画』――かつて滅亡した古代王朝の秘宝のありかが記されていると噂される、百億円の価値を持つ幻の絵画。
「ふ……ふふふ」
銀の仮面の奥から、低く、甘美で、底知れぬ狂気を孕んだ男の笑い声が漏れ出た。
男は黒革の手袋を嵌めた指先で、胸元から一枚の漆黒のカードを取り出し、ガラスケースの縁へと滑らかに挟み込んだ。
そこには、銀色のペンで優雅に記された一文があった。
『親愛なる帝都の警察諸君、ならびに下町の時計技師シオン殿。
来たる満月の夜――千人の観客の眼前、完全なる監視のただ中において、この幻影の絵画をいただく。
千人の目が証言する【鉄壁の不在証明】を、貴殿の手で解体できるか……見事、証明してみせたまえ。
――『影の演出家』』
男はマントを翻し、煙のように夜の闇の奥へと姿を消した。
時を狂わせる者と、時を正す者。
千人の観客が証言する、次なる不可能犯罪の幕が――今、静かに上がろうとしていた。
(第1章『機械仕掛けの密室館と解体された鉄壁のアリバイ』 ――完)
(第2章『幻影の魔導美術館と、千人の観客が証言する不在証明』 へ続く)




