第61話:密やかな奇跡~エルネスタのポケットに戻された、完璧に動く形見時計~
下町の喧騒を後にし、帝都中央区へと続く広々とした大通りへと歩みを進めるにつれ、周囲の景色は再び静寂と冷気を取り戻していった。
高くそびえ立つ貴族たちの石造りの邸宅、街灯の鈍いガス光が照らし出す濡れた舗道。
夜風が強まり、エルネスタのプラチナブロンドの髪を冷たく吹き抜けていく。
辻馬車の停留所が見えてきたところで、エルネスタはふと立ち止まり、冷え切った指先を温めようと軍用外套の左胸ポケットへと無意識に手を差し入れた。
「……ん?」
指先が、ポケットの奥底に収められた、ある硬質で冷たい金属の塊に触れた。
ずっしりとした手応え。手のひらに収まる円形の重み。
エルネスタは眉をひそめ、訝しげにその金属の塊をポケットから引き抜いた。
「これ……私の、懐中時計……?」
街灯の淡いオレンジ色の光の下で白銀の輝きを放ったのは、紛れもなく、亡き母から受け継いだあの形見の銀製懐中時計だった。
表面には、名門ヴァレンタイン公爵家の百合の紋章と、ツタの葉の優美な彫刻が施されている。
だが――彼女の記憶が正しければ、この時計は二日前の雨の夜、クロノス堂の作業机の上で、シオンに「直せるはずがない」と突き返そうとして預けたままになっていたはずだった。
なぜ、今、自分のポケットに入っているのか。
(いつの間に……? まさか、さっき石畳で足をつまずかせた時……?)
シオンが彼女の身体を抱き留めた、あの数秒間の至近距離の接触。
彼が彼女を抱き締めながら、誰にも気づかれぬ神業のような指先の動きで、そっとこの重みを手渡していたのだ。
「あいつ……一言も言わずに……」
エルネスタは呆れたように小さく息を吐いた。
どうせ、直せなかったから黙って返してきたのだろう。そう自分に言い聞かせながら、彼女は何気なく、時計の頭部にある真鍮のリューズボタンを親指で軽く押し込んだ。
――パチン。
澄んだ小さな解錠音とともに、バネ仕掛けの銀のハンターケースの蓋が、滑らかに跳ね上がった。
そして――。
ト・ク・ン……。
エルネスタの心臓が、激しく跳ね上がった。
耳を疑うような、信じられない音が、静寂に包まれた夜の路地に響き渡っていた。
チクタク、チクタク、チクタク、チクタク、チクタク――。
それは、まるで生まれたばかりの小鳥の鼓動のように軽やかで、鈴を転がすように澄み渡った、神聖な金属の脈動だった。
純白のエナメル文字盤の上で。
職人の炎によって極限まで青く焼き入れられた、息を呑むほど細く美しい【ブルースチール(青焼き鋼)の秒針】が――。
一秒の淀みもなく、一瞬の引っかかりもなく、まるで意志を持った星の軌道のように滑らかに、完璧な円を描いて時を刻み続けていたのだ!
「あ……っ、嘘……嘘でしょう……!?」
エルネスタの喉から、震える息が漏れ出た。
全身の血が逆流し、手足の先が痺れるような強烈な衝撃が、彼女の全身を貫いた。
十年間。
十年前のあの嵐の冬、最愛の母が謎の馬車事故で非業の死を遂げて以来、一度たりとも動くことのなかった時計。
帝都最高峰の工科学アカデミーの主任教授たちも、スイスから招聘された帝室御用達の時計師たちも、誰もがムーブメントを一目見るなり首を横に振り、「内部の原初機構が複雑怪奇すぎて、部品を削り出すことすら不可能だ」「二度と動くことはない」と匙を投げた、死んだはずの時計。
それが今――彼女の掌の中で、確かに、温かく、生きていた。
チクタク、チクタク、チクタク――。
規則正しく刻まれるその音は、幼い頃、母の温かい膝の上で絵本を読んでもらいながら聞いていた、あの懐かしい日々の温もりと寸分違わず重なり合っていた。
エルネスタの指先が激しく震えた。
彼女はおそるおそる、時計の裏蓋の爪に指をかけ、パチンと裏蓋を開放した。
ガラスの内蓋越しに現れたのは――目を見張るほど神々しい、機械仕掛けの小宇宙だった。
鏡面のように磨き上げられた真鍮の地板。
ルビーの軸受けの中で踊るように回転する天符。
何重もの輪列が寸分の狂いもなく噛み合い、神秘的な調和を奏でている。
そして――その地板の隅、顕微鏡でしか彫れないような極小の美しい筆記体で、新しく刻み込まれたばかりのエングレービング(彫刻)があった。
『To Ernesta, Time begins anew.(エルネスタへ、時は再び動き出す)』
「…………ッ!」
息が詰まり、視界が一瞬にして滲んだ。
昨夜の光景が、走馬灯のように脳裏を駆け巡った。
ジュリアンからの脅迫を受け、警察上層部からの逮捕状に怯え、いつ暗殺者に襲われるかもわからない死線の中で――シオンは、一睡もすることなく、工房の机でキズミを目に嵌め、自らの命を削るようにしてこの時計の部品を削り出していたのだ。
恩師の遺産と、自らの持てるすべての技術と知性を注ぎ込み、凍りついていた彼女の時間を解き放つために。
そして彼は、それを自慢することも、恩を着せることもなく。
ただ黙って、彼女のポケットへと滑り込ませた。
『時は再び動き出す』という、たった一行の祈りだけを刻んで。
「ばか……」
ポタリ。
エルネスタの大きな青い瞳から溢れ出した大粒の雫が、銀の時計のガラスの上に落ち、パッと丸く弾けた。
「ばか……っ! 大馬鹿者……っ!」
次から次へと、涙が止まらなかった。
ポロポロと零れ落ちる熱い涙が、頬を伝い、夜風に冷やされていく。
母を失ってからの十年間、彼女は泣くことを自らに禁じてきた。
名門ヴァレンタイン公爵家の跡取りとして、弱みを見せれば社交界の狐どもに喰い殺される。
警察に入ってからは、「氷の令嬢」の仮面を被り、冷徹な法の刃として感情を押し殺し続けてきた。
だが――今、その冷たく頑丈だった氷の鎧が、掌の中の小さな温かな鼓動によって、跡形もなく完全に融解してしまった。
「なによこれ……こんなの……反則じゃない……!」
エルネスタは両手で時計をぎゅっと包み込み、自らの胸元――激しく高鳴る心臓の真上へと強く押し当てた。
トクン、トクン、トクン。
チクタク、チクタク、チクタク。
彼女の早鐘を打つ心拍と、時計が刻む銀の鼓動が、完璧なリズムで重なり合っていく。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように痛かった。
息が苦しくなるほど甘く、切なく、熱い――生まれて初めて知る、恋という名の激痛。
エルネスタは赤くなった顔をマフラーの奥へと深く埋め、零れる涙を止めようと何度も強く目を瞬かせた。
だが、口元からはどうしても、幸せで堪らない微笑みが溢れ出して止まらなかった。
彼女はゆっくりと振り返った。
遠く、下町の煤けた屋根の向こう――真鍮小路の片隅に灯る、あのクロノス堂の温かなオレンジ色の小さな明かりを、愛おしそうにじっと見つめた。
「……私の時間は、動き出したわ。シオン……あなたと一緒に」
時計を握りしめた彼女の横顔は、夜の冷気の中にあって、世界中の誰よりも美しく、優しく輝いていた。




