第60話:不器用なお礼~「……助けられたことは、認めてあげる」~
赤レンガの狭い路地を曲がると、見慣れた真鍮の古めかしい看板が見えてきた。
歯車と振り子をかたどった文字――『時計工房 クロノス堂』。
すっかり夜の帳が下りた下町の片隅で、工房の一階の格子窓からは、ランプの温かなオレンジ色の光が石畳を優しく照らし出していた。
その光を見つめた瞬間、シオンの胸の奥に、張り詰めていたすべての緊張が解け落ちるような深い安堵が広がった。
カランコロン、カランコロン!
二人が工房の前に辿り着くのとほぼ同時に、工房の木製の引き戸が勢いよく内側から跳ね開けられた。
「親方ーーーーーーーっっっっっ!!!!」
耳をつんざくような甲高い叫び声とともに、小さな影が弾丸のような猛スピードで飛び出してきた。
「うわっ、トビー!」
ドスン!と重い衝撃とともに、シオンの腰のあたりに頭から突っ込んできたのは、煤だらけのエプロンを着けた弟子の少年・トビーだった。
トビーは両手でシオンの作業用コートの裾を必死にしがみつき、顔をコートに擦り付けながら、大粒の涙と鼻水をボロボロと流して泣きじゃくった。
「親方! 親方ぁぁぁっ! よかったぁぁぁっ! 警察に連れて行かれたって聞いたから……もう二度と帰ってこられないんじゃないかって……おいら、怖くて……怖くてたまらなかったんだぁぁぁっ!」
「トビー……」
シオンは苦笑しながら、手にした工具鞄を足元に下ろし、両手で少年の小さな背中を優しく抱きしめた。
「心配をかけて悪かったね。でも、言っただろう? 私は悪いことなどしていない。時計屋として、やるべき仕事をしてきただけだ」
「うん……! うん……っ!」
トビーは袖口で涙を乱暴に拭うと、握りしめていた一枚の紙をシオンの目の前に高々と掲げてみせた。
それは、街の辻で配られていた帝都日報の刷り上がったばかりの夕刊号外だった。
墨の匂いも生々しい大見出しが、街灯の明かりの下で躍っている。
『バローニ侯爵密室殺人、驚愕の真相! 鉄壁のアリバイは熱膨張で歪められた偽りの時間だった!』
『下町の若き時計技師、法廷にて物理の密室を完全解体! 放蕩貴族ジュリアンを尊属殺人で現行犯逮捕!』
『特別捜査局長ボールドウィン中将、収賄容疑で更迭・身柄拘束! 警察上層部の大粛清へ!』
「街中、この号外で大騒ぎだよ! 八百屋のおじさんも、パン屋のおばちゃんも、みんな親方のことを『下町の英雄だ!』って叫んでた! バローニ侯爵の悪徳高利貸しの借金証書も、全部警察が燃やしてくれたんだってね! みんな大喜びで、今夜は広場で酒盛りするって言ってるよ!」
トビーは興奮冷めやらぬ様子で一気にまくしたてたが、ふとシオンの隣に立つ人影に気づき、ハッと目を丸くして言葉を失った。
「あ……! 警視の、お姉ちゃん……?」
軍服ではなく、美しい濃紺のワンピースを身に纏い、優しげに微笑んでいるエルネスタを見て、トビーは息を詰まらせた。
「わあ……! お姉ちゃん、すっごく綺麗……! まるでおとぎ話の絵本に出てくる本物のお姫様みたいだ!」
「ふふっ……ありがとう、トビー君」
エルネスタはくすりと上品に微笑むと、トビーの前に静かに膝をつき、少年の目線に合わせてしゃがみ込んだ。
そして、白手袋を外した温かな素手を伸ばし、トビーの涙で濡れた頬を、まるで聖母のように優しく包み込んだ。
「ごめんなさいね、トビー君。あなたの親方を犯人扱いして、怖い思いをさせてしまって。……でも、あなたの親方は、本当に強くて立派な人よ。法廷で何百人もの警察官や貴族たちを前にして、一歩も引かずに真実の時を刻んでみせたわ」
「うん! おいらの親方は、世界一の時計屋なんだ!」
トビーは胸を張り、エルネスタの細い指先を、自らの小さな両手でぎゅっと握りしめた。
「お姉ちゃん、親方を助けてくれて……信じてくれて、本当にありがとう! おいら、お姉ちゃんのこと、最初は意地悪な税金泥棒だと思ってたけど……本当はすっごく優しくてかっこいい警察官なんだね!」
「……っ!」
子供の純真無垢な感謝の言葉に、エルネスタの胸が熱く震えた。
警察官になってからというもの、貴族社会からは「女だてらに」と陰口を叩かれ、警察内部からは「公爵家のコネ」と蔑まれ、市民からは「冷酷な権力の走狗」と恐れられてきた。
誰かから心からの感謝を告げられたことなど、彼女の人生の中で一度としてなかったのだ。
エルネスタの青い瞳に、微かに滲んだ熱い雫。
彼女はそっとトビーの頭を引き寄せ、その額に優しく自らの額をコツンと当てた。
「……ありがとう、トビー君。あなたが淹れてくれたあの温かいお茶があったからこそ、私は途中で諦めずに、真実を追い続けることができたのよ」
エルネスタはゆっくりと立ち上がり、乱れたワンピースの裾を払った。
そして、作業机の工具箱を抱えて静かに見守っていたシオンの方へと向き直った。
夜風が、彼女のプラチナブロンドの髪をふわりと揺らす。
街灯の淡いオレンジ色の光に照らされた彼女の横顔は、名門の令嬢としてのプライドと、一人の女性としての素直な感情の間で、微かに揺れ動いていた。
彼女は指先をワンピースの胸元にそっと当て、少しだけ視線を泳がせながら、ぽつりと呟いた。
「……シオン」
「はい」
「……助けられたことは、認めてあげるわ」
エルネスタの声は、夜風に溶けそうなほど静かで、だが芯の通った澄んだ音色だった。
「もしあなたが法廷に来てくれなければ……私は、警察の腐敗を暴くことも、ジュリアンの罪を暴くこともできなかった。それどころか、無実のあなたを逮捕させられ、自らの信じる正義を永遠に見失うところだったわ。……あなたの勇気と、その類稀なる技術に救われたのは……私の方よ。……本当に、ありがとう」
彼女はペコリと、小さく、だが心の底からの感謝を込めて頭を下げた。
シオンは静かに目を細め、夜空を見上げて小さく息を吐いた。
「礼を言われる筋合いはありませんよ。私はただ、自分の作った時計が人を殺す凶器にされるのが、職人として我慢ならなかっただけです。……それに、私をただの犯罪者として切り捨てず、最後まで私の言葉に耳を傾け、信じてくれたのは……エルネスタ、あなた自身です。あなたが諦めなかったからこそ、時間は正しい時を刻むことができたのですよ」
「シオン……」
二人の眼差しが、静かな夜の空気の中で温かく交錯した。
――だが、次の瞬間。
エルネスタの白い肌が、自らの素直な感謝の言葉の重みに耐えかねたように、カッと一気に耳元まで真っ赤に染め上がった。
「っ……! か、勘違いしないでよね!」
彼女はパッと身体をそらし、腕を組んでツンと顎を跳ね上げた。
「これで、貸し借りなしよ! 私があなたを庇ってあげたことと、あなたが法廷で証言したことで、チャラなんだから! 次にあなたが少しでも怪しい偽装工作に手を染めたら……今度こそ、私がこの手で手錠をかけて、一生ブタ箱に叩き込んであげるんだからね!」
「ははっ、それは恐ろしい。肝に銘じておきますよ、エルネスタ警視」
シオンが肩をすくめて笑うと、エルネスタは「もう! エルネスタでいいって言ったでしょう!」と小さく地団駄を踏んだ。
その微笑ましい二人のやり取りを、トビーが口元を手で押さえてクスクスと笑いながら見つめていた。
「じゃあ……私はこれで戻るわ。父への報告書も書かなければならないしね」
エルネスタは抱えていた軍用外套を再び肩に羽織り、制帽をすっきりと被り直した。
「送ってくれてありがとう、シオン。……それじゃあね、トビー君」
「うん! バイバイ、エルネスタお姉ちゃん! またお茶飲みに来てね!」
エルネスタは小さく手を振り返すと、大通りへと続く石畳の路地を、軽やかな足取りで歩み去っていった。
彼女の後ろ姿が見えなくなるまで、シオンとトビーは工房の前で静かに手を振り続けていた。




