第59話:黄昏の下町通り~並んで歩くシオンとエルネスタ~
帝都警察本部が威容を誇る中央官庁街の石畳を抜け、古い運河にかかる石造りのアーチ橋を渡ると、街の空気は劇的な変貌を遂げた。
官僚たちの押し殺した靴音と冷たい大理石の冷気が支配する上層区とは対照的に、そこには生活の熱気と混沌が渦巻く、帝都の心臓部――下町・職人街『真鍮小路』が広がっていた。
道幅の狭い路地の両脇には、風雨に晒されて黒く煤けた赤レンガ造りの長屋や商店が所狭しと軒を連ね、頭上には無数の洗濯ロープと、蒸気配管から漏れ出す白い蒸気が蜘蛛の巣のように張り巡らされている。
夕暮れの冷たい風に乗って漂ってくるのは、鍛冶屋の炉から吹き上がる真っ赤な火の粉と焦げた鉄の匂い、大衆食堂の軒先から立ち上る玉ねぎと牛スジ肉の煮込みの濃厚な湯気、そして街角のパン屋の窯から焼き上がったばかりのライ麦パンの香ばしい匂いだった。
「……ふう」
大階段を降りてからしばらく歩いた辻の陰で、エルネスタはふと足を止めると、肩に羽織っていた重厚な漆黒の軍用外套をふわりと脱ぎ払った。
制帽も外し、白手袋とともに丁寧に畳んで左腕に抱える。
その瞬間――夕暮れの薄暗い路地裏の空気が、まるで一筋の清らかな月光に貫かれたかのように、パッと華やかに澄み渡った。
軍服の下に着込んでいたのは、上質な羊毛で丁寧に編まれた、落ち着いた濃紺の私服ワンピースだった。
胸元には細やかな白いレースの立ち襟が上品にあしらわれ、華奢な鎖骨としなやかな首筋の白さを、まるで降り積もったばかりの処女雪のように際立たせている。普段は軍服の厚い布地で覆い隠されていた細く引き締まったウエストのくびれと、すらりと伸びた優美な足のラインが、夕暮れの茜色の光を浴びて柔らかに浮かび上がっていた。
プラチナブロンドの長い髪が、夕風をはらんでサラリと肩から背中へと広がり、石鹸と沈丁花の清廉な香りがふわりと路地に満ちる。
「……あの、エルネスタ警視」
シオンは思わず足を止め、目を丸くしてその姿を見つめた。
「軍服を脱がれて、どうされたのですか? 夕風が冷え込んできましたよ」
「いいのよ。警察の制服を着たまま下町を歩いていたら、街の人たちが怯えてしまうでしょう? それに……今日はもう、捜査官としての勤務時間は終わったわ」
エルネスタは少し照れくさそうに青い瞳を伏せ、ワンピースの裾を整えた。
「それとも……この格好は、変かしら?」
「いえ、決してそんなことはありません。……ただ、あまりにも美しすぎて、下町の荒くれ者たちが目を奪われて事故でも起こさないか心配なだけです」
「なっ……! な、何を馬鹿なことを言っているのよ……!」
シオンが至極真面目な顔で口にした言葉に、エルネスタの白い頬が、夕陽よりも鮮やかな朱色にカッと染まり上がった。
彼女はツンと鼻を鳴らしてそっぽを向き、小走りにシオンの先を歩き始めた。
だが、シオンの懸念は決して冗談ではなかった。
二人が並んで真鍮小路のメイン通りへと足を踏み入れると、行き交う市民たちの喧騒が、潮が引くようにピタリと止まったのだ。
鉄パイプを担いでいた鍛冶職人がポカンと口を開けて立ち尽くし、天秤棒を担いだ八百屋の親父が野菜の籠を取り落としそうになり、荷馬車の御者が馬の手綱を引き絞って呆然と見惚れている。
煤けた下町の路地に突如として舞い降りた、見紛うことなき高貴さと可憐さを纏った、深窓の令嬢。
その彼女が、油染みのついた作業着に鳥打帽を被った下町の貧乏時計屋と、肩を並べて親しげに歩いているのだ。誰もが我が目を疑い、信じられないものを見るような驚嘆の眼差しを二人へと注いでいた。
「……シオン。みんなが、すごい顔でこちらを見ているのだけれど」
エルネスタが落ち着かない様子で、シオンの背中の影に少しだけ身を寄せた。
「言ったでしょう。あなたが目立ちすぎるのです。公爵家の令嬢が歩くような場所ではありませんよ、ここは」
「そんなことないわ。私……下町って、もっと薄暗くて怖い場所だと思っていたの。でも、全然違うわね」
エルネスタは並び立つ長屋の窓から漏れる黄色いランプの灯火や、路地を走り回る子供たちの笑い声を、愛おしそうに見つめた。
「貴族街の屋敷は、どれも冷たい大理石と高い鉄格子で囲まれていて、他人の息遣いなんて聞こえないわ。でもここは……みんなが笑って、怒って、汗を流して、必死に命を燃やしている。街全体が、一つの巨大な生き物のように鼓動しているのね。……とても、温かい匂いがするわ」
「ええ。下町の人間は不器用ですが、嘘をついて生きるほど暇ではありませんから」
シオンは穏やかに微笑んだ。
「時計の歯車と同じです。凸凹で油まみれですが、一つ一つの歯がしっかりと噛み合って、この巨大な帝都の時間を前に進めている。私は、この街が好きですよ」
「……ええ。あなたのその言葉を聞いて、少し分かった気がするわ。あなたがなぜ、アカデミーの華々しい教授の椅子を捨ててまで、この下町に留まり続けているのかが」
その時だった。
ガタッ。
長年の雨水で削られ、角が崩れていた石畳の継ぎ目に、エルネスタの靴の踵が不意に引っかかった。
「きゃっ……!」
バランスを崩し、華奢な身体が前へと傾ぐ。
「危ない!」
シオンは反射的に右手を伸ばし、彼女の細い腰と肘を、力強く抱き留めた。
トン、と柔らかな感触とともに、エルネスタの身体がシオンの胸元へとすっぽりと飛び込む。
ふわりと舞い散るプラチナブロンドの髪。
二人の顔が、わずか数センチメートルの至近距離でぴたりと止まった。
シオンの逞しい腕の中に抱かれたエルネスタは、息を呑んで青い瞳を大きく見開いていた。
至近距離で交わる二人の視線。
触れ合う肌から伝わってくる、驚くほど熱いお互いの体温。
シオンの鼻腔を、先ほどよりも濃厚なラベンダーと沈丁花の清らかな香りが甘くくすぐった。
「…………っ!」
「……お怪我はありませんか、エルネスタ警視」
「あ……え、ええ……だ、大丈夫よ……」
エルネスタは心臓が口から飛び出しそうなほどの激しい動悸に襲われ、声をおそるおそる震わせた。
シオンがゆっくりと身体を起こし、彼女の足を安全な平らな敷石の上へと着地させる。
二人の身体が離れた瞬間、冷たい夕風が二人の間に吹き抜けたが、触れ合っていた部分の熱はいつまでも消えなかった。
エルネスタは耳の先端まで真っ赤に染め上げ、乱れたワンピースの胸元を手でぎゅっと押さえながら、俯いて小刻みに息を整えた。
「……ば、バカ……。急に抱きしめたりするから、心臓が止まるかと思ったわ……」
「転んで怪我をされるよりは良かったと思いますが」
シオンもまた、微かに気まずそうに視線を逸らし、小さく咳払いをした。
「……それと、シオン」
「はい?」
「……さっきも言ったけれど。二人きりの時は……『警視』なんて肩書きで呼ぶのはやめなさい。堅苦しくて、背中が痒くなるわ」
「では……何とお呼びすれば?」
「……エルネスタでいいわ。……いえ、エルネスタと呼びなさい。命令よ」
上目遣いで、少しだけ拗ねたように唇を尖らせるエルネスタ。
シオンはそのあまりにも愛らしい表情に、思わず相好を崩した。
「承知しました、エルネスタ。……さあ、あそこの路地を曲がれば、クロノス堂ですよ」
「ええ……行きましょう、シオン」
二人は再び並んで歩き始めた。
先ほどよりも、ほんの少しだけ二人の肩と肩の距離が縮まっていた。




