第58話:事件の幕引きと、無罪放免の時計屋~エルネスタの敬礼~
午後五時四十分。
帝都の西の空は、燃え盛るような赤銅色と、澄み渡る濃紺のグラデーションに美しく染まり上がっていた。
帝国警察本部の正面玄関――天を突くようにそびえ立つギリシャ様式の白大理石円柱が立ち並ぶ大階段の最上段に、シオンとエルネスタの二人は肩を並べて立っていた。
眼下に広がる帝都中央広場では、夕暮れの街を行き交う蒸気乗合馬車の甲高い汽笛が鳴り響き、長い影を引きながら家路を急ぐ市民たちの活気に満ちたざわめきが心地よく風に乗って運ばれてくる。冷たく澄んだ夕風が、二人の外套の裾をふわりと優しく揺らし、街の辻々ではガス灯が一斉にポッと温かなオレンジ色の灯火を宿し始めていた。
大講堂での劇的な公開アリバイ解体劇の後、帝国司法の歯車は電光石火の速度で回転した。
最高検察庁特務監察部は、エルネスタ警視が命懸けで提出した捜査報告書と、シオンが法廷で完璧に実証した物理工学の証拠に基づき、直ちに特別捜査局長ボールドウィン中将、ならびに警察庁上層部で収賄に関与していた腐敗幹部五名を、職権濫用および巨額収賄・証拠隠滅の容疑で一斉に逮捕・身柄拘束した。
さらに、バローニ侯爵邸の地下深く、旧運河に面した秘密金庫も最高検察庁の手で正式に強制家宅捜索を受け、押収された。金庫内に眠っていた下町の市民たちを苦しめていた数千枚に及ぶ違法高利貸しの債権証書はすべて法的に無効・破棄処分となり、地下に幽閉され外国へ売り飛ばされる寸前だった十数名の孤児たちも、エルネスタ率いる捜査班によって全員が無事に救出・保護されたのだ。
明日早朝に発行される帝都各社の日報・時報の朝刊一面は、間違いなく「名門バローニ侯爵家の没落」「警察上層部の大粛清」「時計職人が暴いた物理の密室」というセンセーショナルな見出しで埋め尽くされるはずだった。
そして――シオンに対する司法査問委員会の最終審理。
重厚な査問室の席上で、検察官たちはシオンがジュリアンの甘言に欺罔されて技術を提供させられた「事件の被害者」であることを正式に確認した。さらに、自らの身の危険や共犯の嫌疑を恐れることなく自首し、自らの卓越した技術と命を懸けてジュリアンの鉄壁の偽装を粉砕し、警察の腐敗までも暴き出した多大なる功績が全面的に認められた。
下された判決は――【完全不起訴・無罪放免】。
それは、司法の公正さが勝利した瞬間であると同時に、エルネスタの父である帝国貴族院の重鎮、ヴァレンタイン公爵が、水面下で司法大臣および最高検察総長に対して強力な法的根回しと圧力をかけてくれた結果でもあった。
「……父から、私宛てに直筆の親書電信が届いたわ」
エルネスタが軍服の胸ポケットから、金箔で縁取られた上等な羊皮紙の電信用紙を取り出し、自嘲気味に口元を綻ばせた。
「『娘の身勝手な暴走を止められなかったことは遺憾だが、帝国の骨髄を蝕む巨大な癌を一つ切除したその執念と正義感は評価する。……また、お前を支え、真実の時を刻ませたその時計職人の青年には、ヴァレンタイン家としていずれ相応の礼を尽くさねばならん』……ですって。幼い頃から厳格そのもので、私の仕事を一度として褒めてくれたことのないあの父が、こんな言葉を寄越すなんて……帝都の空から魚が降ってくるよりあり得ない奇跡よ」
「身に余る光栄ですね」
シオンは使い込まれた革巻きの工具鞄を持ち直し、夕陽に照らされたエルネスタの横顔へと穏やかに微笑みかけた。
「ですが、私はただ、時計職人としての責務を果たしただけにすぎません。技術を悪用され、時間を嘘の道具にされたままでは、死んでも師に顔向けができませんでしたから。……終わりましたね、エルネスタ警視」
「ええ。ひとまず、この事件はね」
エルネスタはしばらくの間、沈みゆく夕陽が黄金色に染め上げる帝都の壮大な大パノラマを、静かにその青い瞳に焼き付けるように見つめていた。
やがて、彼女は意を決したようにくるりと身体の向きを変え、シオンの真正面へと凛として歩み寄った。
二人の距離は、わずか一歩。
彼女は制帽の黒いツバを正し、背筋を天に向かって一本の槍のようにピンと伸ばすと、履き慣れた軍靴の踵をカチリと澄んだ音を立てて打ち合わせた。
そして――。
白手袋を嵌めた右手を、寸分の乱れもなく真っ直ぐに右額の横へと掲げ、大理石の回廊の空気を震わせるような、息を呑むほど神聖で美しい『最敬礼』を、シオンただ一人へと捧げた。
「シオン技師。あなたの比類なき知性と、物理の深淵を読み解く洞察力。そして何よりも……いかなる悪徳と権力にも屈せず、歪められた時間を真実へと解き放った、職人としての高潔なる誇りに。――帝国警察特別捜査局警視エルネスタ・フォン・ヴァレンタイン、心より最大の敬意と、生涯の感謝を捧げます」
夕暮れの茜色の光が、エルネスタのプラチナブロンドの髪を神々しい黄金の冠のように輝かせ、真珠のような白い肌を薄紅に染めていた。
社交界からも警察内部からも「氷の令嬢」と恐れられ、何者にも頭を下げなかった名門公爵家の令嬢が、今、下町の一介の時計職人を、自らと魂を並べる唯一無二の相棒として認め、国家の守護者としての至高の礼を尽くしている。
シオンは一瞬だけ驚きに琥珀色の瞳を見開いたが、やがて困ったように眉を下げ、照れくさそうに鳥打帽のツバに指先を当てた。
「……光栄です、警視殿。ですが、下町の油と煤にまみれた時計屋には、いささか眩しすぎる敬礼ですよ」
「ふふっ……いいえ。あなたには、これを受ける資格が十二分にあるわ」
エルネスタは敬礼をすっと解くと、ふっと少女のように悪戯っぽく、柔らかに微笑んだ。
その笑顔は、彼女がこれまでの人生で誰にも見せたことのない、春の陽だまりに咲く沈丁花のように可憐で、胸を衝かれるほど愛らしいものだった。
「じゃあ……行きましょうか。あなたの工房まで、送っていくわ」
「えっ? 馬車でですか?」
「いいえ。……たまには、歩いて帰るのも悪くないでしょう? あなたが愛するこの帝都の下町の風の匂いを、もう少し隣で感じてみたいのよ」
エルネスタは軍用コートの銀ボタンを一つ外し、軽やかな足取りで大理石の階段を一段ずつ降り始めた。
シオンもまた鞄を握り直し、彼女の半歩後ろを、足並みを揃えるように歩み出す。
夕陽が照らす赤レンガの石畳の上を、二つの長い影が寄り添うように並んで伸びていった。




