第57話:押収された私物~ジュリアンの懐にあった【謎の真鍮の歯車】~
カラン、カラン……カラン……。
憲兵たちに力任せに引きずられていくジュリアンが激しく身をよじって抵抗したその瞬間、彼の黒い毛織の喪服の内ポケットから、硬質な金属の小物がポロリと零れ落ちた。
それは壇上に敷き詰められた深紅の絨毯の縁を小さく弾み、冷たい大理石の床の上を甲高い澄んだ金属音を響かせながら転がっていった。
チリチリチリ……とまるで意志を持つかのように円を描いて滑走し、演壇の手前――エルネスタの磨き上げられた黒革の長靴の爪先に、カチリと微かな音を立てて当たって静止した。
「……何かしら?」
エルネスタは眉をひそめて屈み込み、白手袋の指先でそれを慎重につまみ上げた。
大人の掌の中にすっぽりと収まるほどの、直径約四センチメートル、厚さ三ミリメートルほどの小さな円形の金属部品。
大講堂の天井から降り注ぐガス灯の温かな光を浴びて、それは通常の黄銅(真鍮)とは一線を画す、深く沈み込むような鈍い黄金色の光沢を放っていた。
――極めて精密に削り出された、一枚の【真鍮の歯車】だった。
「ジュリアンは時計など持ち歩いていなかったはずよ。これは一体……何かの機械の部品かしら?」
エルネスタが不思議そうに小首を傾げ、その金属の輪をシオンへと手渡した。
シオンはその歯車を自らの右の掌に載せた――その刹那。
ゾクゾクゾクッ……!
まるで氷水を脊髄に直接注ぎ込まれたかのような、凄まじい悪寒と戦慄がシオンの全身を貫いた。
ずっしりとした、見た目の体積からは信じられないほどの異常な比重。
手の中で放たれる、冷徹でいてどこか懐かしい金属の感触。
それは、通常の時計製造に用いられる快削黄銅ではない。銅八十パーセント、亜鉛十五パーセント、錫五パーセントに、極微量の特殊コバルトを添加して鍛造された、伝説の耐摩耗性合金――【青銅真鍮】特有の質感だった。
シオンは無言のまま、ポケットから精密キズミ(ルーペ)を取り出し、右目にカチリと嵌め込んだ。
そして息を殺し、指先の腹で歯車の外周に並ぶ微小な歯を、慈しむように、そして戦慄しながら慎重に撫で回した。
「……歯の数は、百八枚」
シオンの唇から、かすれた呟きが漏れた。
「外径四十ミリメートル、モジュール零点三七。……歯車の噛み合い曲線は、標準的なサイクロイド曲線でも通常のインボリュート曲線でもない。歯底にトロコイド曲線のアンダーカットを施し、歯先を楕円円弧で修正した、極限まで摩擦係数をゼロに近づけるための【特殊変形インボリュート歯形】だ。……スポーク(輪列の腕)の形状は、高速回転時の空気抵抗と慣性モーメントを極限まで低減させるための、美しい三連螺旋肉抜き構造……」
シオンの指先が、微かに震えていた。
キズミのレンズを二枚重ねにし、焦点距離を五ミリまで縮めて歯車の中心部、軸穴の周囲を凝視する。
そこには――肉眼では微細な擦り傷の点刻にしか見えないわずか一ミリ四方の空間に、顕微鏡レベルの超絶技巧によるエングレービング(彫刻)が施されていた。
円形の中に浮かび上がる――『星と砂時計』。
そして、その周囲を囲むように刻まれた、微小な点刻の数式。
「あ……ああ……ッ!」
シオンは喉を詰まらせ、激しい動悸に胸を強く押さえた。
見紛うはずがなかった。忘れられるはずがなかった。
十年以上も昔――まだ幼かったシオンが、油と金属粉の匂いに満ちたあの工房で、恩師クラウス・アルベルトの大きな背中を見上げながら、初めて手伝わせてもらった仕事。
万力に固定されたこの歯車のバリを、極細のダイヤモンドヤスリで一本一本、慎重に磨き落としていたあの日の記憶が、鮮烈な光と匂いを伴って脳裏に蘇ったのだ。
『シオン、よく見ておきなさい。この百八枚の歯車はな、帝都の百万人すべての生活と、祈りと、命を司る大時計塔の“心臓の弁”なんだ。
千年間、一度の狂いもなく、油が尽きても焼き付かず、時を刻み続けるために、私が全生涯の時計工学を注ぎ込んで生み出した唯一無二の結晶だ。
これ一枚が失われれば、帝都のすべての時計の調和が崩れ去ってしまう。
職人はな、己の命よりも重い責任を持って、この歯車を守り抜かねばならんのだよ』
そう言って、シオンの頭をごつごつとした温かい手で優しく撫でてくれた、恩師の笑顔。
だが――その数ヶ月後、十年前のあの嵐の夜。
帝都大時計塔の最上階で突如として巻き起こった、猛烈な大火災。
赤黒い炎と黒煙が視界を遮り、溶けた鉛が雨のように降り注ぐ中、倒壊する巨大な鐘架の下で、クラウスは幼いシオンを外の退避ハッチへと力任せに突き飛ばした。
『シオン、逃げろ! 時間を支配しようとする悪魔に……我が技術を、決して渡すなァッ!』
それが、炎の渦に呑み込まれた師の、最後の叫びだった。
その直後、大時計塔の機械室からは、この百八歯車をはじめとするクラウスの最高傑作の機構部品の数々が、何者かの手によって根こそぎ強奪され、公式には「火災による焼失」として闇に葬られていたのだ。
その失われたはずの――恩師クラウス・アルベルトの魂の遺産、【原初の108真鍮歯車】が、なぜ今、ジュリアンの懐から転がり落ちてきたのか!
「シオン……? どうしたの、顔色が真っ青よ。何かわかったの?」
エルネスタが異変を察知し、心配そうにシオンの顔を覗き込んできた。彼女の白手袋の手が、シオンの震える肩にそっと添えられる。
「……エルネスタ警視」
シオンは歯車を掌の中で強く、強く握りしめた。冷徹な真鍮のエッジが、皮膚を突き破らんばかりに掌に食い込む。
「ジュリアンを操っていた『影の演出家』は……十年前、私の恩師クラウスを謀殺し、大時計塔を焼き払ってこの歯車を奪い去った真犯人と、百パーセント同一人物です。……奴はこの歯車をジュリアンにお守り代わりに持たせ、私に対する明白な『挑戦状』として現場に送り込んできたのだ……!」
「クラウス技師の……原初機構の歯車……!」
エルネスタの青い瞳にも、息を呑むような激しい動揺と衝撃が走った。
彼女は無意識のうちに、自らの軍服の胸ポケットへと手を当てた。そこには、十年間決して動くことのなかった、亡き母の形見の懐中時計が収められている。
「私の母の形見時計……その内側の地板にも、これとまったく同じ『星と砂時計』の紋章が刻まれていたわ。母が不審な馬車事故で亡くなったのも、ちょうど十年前……大時計塔が炎上したのと、同じ年の同じ冬だった……!」
二人の視線が、至近距離で雷鳴のように激しく交錯した。
十年前の二つの悲劇。
大時計塔の炎上と、高潔なる技師クラウス・アルベルトの死。
そして、ヴァレンタイン公爵夫人――エルネスタの母の謎めいた死。
点と点でしかなかった過去の哀しみが、この一枚の冷たい真鍮の歯車を通じて、一本の太く冷徹な鋼鉄の鎖となって結ばれたのだ。
「……すべての糸を引いている怪物が、帝都の暗渠の底に潜んでいる」
シオンの琥珀色の瞳の奥に、かつてないほど激しく、静かな復讐と使命の炎が燃え上がった。
「事件は、終わってなどいません。ジュリアンの逮捕は、奴が仕掛けた巨大な謀略の、ほんの序章にすぎない」
「ええ……望むところよ」
エルネスタもまた、唇をきつく結び、その凛とした眼差しに不屈の闘志を宿らせた。
「私の母の命を奪い、あなたの恩師を陥れた悪魔……『影の演出家』。いかなる権力と闇に守られていようと、私たち二人の手で、必ず白日の下に引きずり出して裁きを受けさせてみせるわ!」
二人の魂が、冷たい真鍮の歯車の前で、永遠の盟約のように固く結ばれ合っていた。




