第49話:ジュリアンの余裕~「下町の時計屋の妄言にすぎない」~
講堂内を吹き荒れる動揺の嵐の中、ジュリアンの背後に控えていた初老の男が素早く耳元に滑り込んだ。
帝国弁護士会の重鎮であり、かつて数々の悪徳貴族や金融王たちの重大犯罪を「証拠不十分」の名のもとに無罪放免にしてきた百戦錬磨の顧問弁護士、モート卿である。鷲鼻の奥にある細い目が、冷徹な捕食者の光を放っていた。
「……狼狽えるな、ジュリアン様。証拠のない告発など、ただの負け犬の遠吠えにすぎません。民衆や記者どもは派手な劇を好むが、司法とは冷厳たる紙と証拠の世界です。警察の鑑識記録を盾に取り、この男を詐欺師として社会的に抹殺なさい」
悪魔の囁きを聞いたジュリアンの青白い瞳に、急速に狡猾な光が戻ってきた。
ジュリアンは胸のポケットから純白の絹のハンカチを取り出し、額の脂汗を優雅に拭うと、フッと鼻先で冷笑を漏らした。そして、大げさに両手を広げて肩をすくめ、演壇を取り囲む記者たちに向き直った。
「……ハハハッ! 皆様、どうか冷静になっていただきたい! あまりに荒唐無稽で、開いた口が塞がりません!」
ジュリアンは洗練された貴公子特有の嘲笑を貼り付け、シオンを蔑むように一瞥した。
「この男は、事件の数日前、我が屋敷の古時計を定期点検するために出入りした、ただの下町の貧しい時計修理屋にすぎません! その際、我が家が莫大な財産と爵位を有していることを知り、父の急逝に便乗してありもしない『共犯関係』を捏造し、私から金貨千枚を強請り取ろうとした恐喝犯なのです!」
「その通りでございます!」
モート弁護士が立ち上がり、革張りの鞄から一束の分厚い公文書を取り出して、宙に誇らしげに掲げてみせた。
「報道陣の諸君、感情的な法螺話に惑わされてはならん! 近代司法の根幹とは、何者の主観にも左右されぬ『客観的事実』の上にのみ成立するものだ! ここに、帝国警察本部鑑識課の筆頭検査官が作成した、事件翌朝の公式検証報告書がある!」
モート弁護士は書類をバサバサと鳴らし、最前列の記者たちの目の前へ突き出した。
「書斎に置かれた大時計のムーブメント、振り子、脱進機、文字盤に至るまで、極細部の顕微鏡検査が行われた! その結果、何らの外部工作の痕跡も、不正な改造も、部品の損傷も一切存在せず、時計は寸分の狂いもなく正常に稼働していたと明記されている! 警察の誇る科学鑑識の結論を、下町の修理工の戯言が覆せるはずがあるかね!?」
モート弁護士はシオンへと歩み寄り、金縁の眼鏡を光らせながら冷酷な指を突きつけた。
「さらに、当夜ジュリアン様と同席していた名門貴族のカイル卿は、警察および検察の尋問に対し、すでに宣誓供述書を提出しておられる! 『午後九時三十五分から十時十分までの三十五分間、ジュリアン様と終始チェス盤を挟んで対局し、壁の大時計が時を告げる鐘を鳴らすのを何度も確認した』と! 時計に異常はなく、証人の証言も完璧! 貴様の言う『物理的トリック』とやらを証明する客観的物証が、一体どこにあるというのだね!? 口先だけのペテン師め!」
モート弁護士の淀みない論告と、権威ある鑑識報告書の存在に、記者たちの間からもざわめきと動揺が広がり始めた。
「確かに……鑑識が『異常なし』と公式に結論づけているなら、時計屋の言いがかりではないのか?」
「貴族の遺産相続に目をつけた、下町の恐喝屋の売名行為か……?」
世論の潮目が変わりかけたのを敏感に察知したボールドウィン局長が、鬼の首を取ったように壇上から怒鳴り散らした。
「聞いたか、エルネスタ警視! 貴様の連れてきた証人とやらは、単なる重大名誉毀損と詐欺未遂の現行犯だ! 最高検察庁の査問令状があろうと、客観的証拠の欠片もない狂言者をこれ以上発言させるわけにはいかん! 警備兵、直ちにその男を手錠で拘束しろ!」
四方から浴びせられる糾弾の嵐。ジュリアンは口元を歪めて勝利を確信し、冷たい見下げ果てた目でシオンを睨みつけていた。
――勝った。所詮は下町のネズミ一匹。権力と法の盾の前には、どんな真実も無力だ――。
だが。
シオンは取り乱すどころか、瞬き一つせず、静かに演壇の前に佇んでいた。
彼の琥珀色の瞳は、澄み切った秋の湖面のように静まり返り、やがてその口元に、氷のように冷徹な薄い笑みが浮かび上がった。
「客観的物証……ですか。ええ、当然ありますよ」
シオンの穏やかで通る一言が、講堂の怒号を一瞬で静寂へと引き戻した。
「ジュリアン様、そしてモート弁護士。あなたがたは鑑識が『異常なし』と判定したことを誇らしげに語る。だが、それこそが私が仕掛けた最大の罠だとは、夢にも思わなかったのですか?」
「な……何だと……!?」
「三流の職人なら、歯車を削り、バネを細工して証拠を残すでしょう。ですが私が設計したのは、証拠が残るような下品な細工ではありません。一定の時間が経過し、役目を終えれば、自動的に何事もなかったかのように自然な状態へと擬態する――【完全時限消滅型のトリック】です。そして――」
シオンがエルネスタへ視線を送ると、エルネスタは白手袋の右手を高く掲げた。
「物証なら、今ここにあります!」
エルネスタの合図とともに、講堂の側面にある重厚な搬入扉が、ガタガタと大きな車輪の軋み音を立てて開かれた!




