第46話:反撃のカウントダウン~明朝10時、バローニ侯爵邸への突入決意~
午後二時三十分。
セーフハウスの屋上。下町の煤けた赤レンガ造りの家々の屋根の向こうに、帝都中央区の高台にそびえ立つ白亜の宮殿――バローニ侯爵邸の巨大な時計塔と尖塔が、冬の冷たい空に威容を誇っていた。
海から吹きつける湿った突風が、エルネスタのプラチナブロンドの髪と、シオンの黒い作業用コートの裾を激しくなびかせている。
二人の眼下には、蒸気を吹き上げる工場群と、忙しなく行き交う民衆の姿が広がっていた。
「クラリスから、最終確認の連絡が入ったわ」
エルネスタが手元の暗号電信の紙片を握りしめ、シオンの隣に並び立った。
「ジュリアンの遺産相続の正式な宣誓式典は――明朝午前十時。バローニ侯爵邸の二階、あの『大時計の広間』で執り行われるわ。貴族院の重鎮、親族、顧問弁護士、警察庁の幹部たち、そして帝都各社の新聞記者たちが一堂に会する、公式の式典よ」
「明朝十時……」
シオンは懐中時計を取り出し、銀の蓋を開いた。
文字盤の針は、午後二時三十五分を指している。
「残された時間は、二十時間足らずですね」
「ええ。これが、あの男を捕らえる最初で最後のチャンスよ」
エルネスタの視線は、遠くのバローニ侯爵邸を射抜くように鋭かった。
「式典が終了し、宣誓書に署名がなされれば、ジュリアンは名実ともにバローニ侯爵となり、上級貴族特権による不逮捕特権を手に入れてしまう。そうなれば、警察の手で奴を拘束することは二度とできないわ。そして奴は、地下金庫の帳簿を持って外国へ高飛びする」
「ならば、答えは一つしかありませんね」
シオンは静かに懐中時計の蓋をパチンと閉め、ポケットへと戻した。
代わりに、年季の入った黒革の野帳(手帳)を取り出し、風に煽られるページを親指で繰って見せた。
そこには、緻密極まるインクの細線で、バローニ侯爵邸の二階大時計の脱進機構図と、綿密な物理計算式がびっしりと書き込まれていた。
「これは……?」
エルネスタが覗き込む。
「ジュリアンが絶対の拠り所としている『大時計のアリバイ』の解体設計図です」
シオンはペン先で、手帳に描かれた放物線と直線の交点を指し示した。
「暖炉の無煙炭が放つ熱量、黄銅とインバー材の熱膨張係数の差、そして微小金属粉を含んだ特殊潤滑油の粘性抵抗推移。……これらを時間の推移と照合すると、極めて奇妙な『物理の歪み』が生まれます。ジュリアンの友人カイル氏は『九時三十五分から十時十分まで三十五分間滞在した』と証言していますが、室温の急上昇による熱伝導のタイムラグを計算に入れれば、現実の帝都時間ではわずか三十一分間しか経過していなかった」
「三十一分……!? つまり、四分間のズレ……いいえ、退出時刻と合わせれば……」
「ええ。カイル氏が退室した現実の時刻は、午後十時二分。そして執事が異変を察知して駆けつけたのは午後十時十分。――ここに、ジュリアン自身すら計算外だった【空白の八分間】が生じるのです」
シオンの鋭い瞳が、冬の冷たい光を反射した。
「八分あれば、書斎裏の隠し通路を使い、父の私室へ往復して毒針を刺し、細工したピアノ線で密室の閂を落とすには十分すぎる時間です。明朝十時、あの絢爛豪華な式典のただ中に踏み込み、全捜査官、貴族、そして報道陣の面前で、ジュリアンが神聖にして不可侵だと誇るアリバイを、世界で一番無慈悲に解体して見せましょう」
「危険な賭けよ、シオン」
エルネスタが横を向き、シオンの顔をじっと見つめた。その怜悧な青い瞳には、彼を案じる微かな情愛と痛みが滲んでいた。
「警察の上層部は、すでに私を『反逆者』として指名手配する準備を進めているわ。明日の屋敷には、完全武装した警察の機動隊や、あの『影の演出家』の暗殺部隊が待ち構えているはずよ。一歩間違えれば、私たちは式典の扉を潜った瞬間に射殺されるか、国家反逆罪で絞首刑台送りよ」
「何を今更、恐れているのですか、エルネスタ警視」
シオンは微かに口角を上げ、穏やかに微笑んだ。
「私には、ジュリアンの虚偽のアリバイを物理法則で粉々に粉砕するための、完璧な計算式と図面がある。そして――」
シオンは眼下に広がる職人街の屋根の連なりを見つめた。
「真鍮小路のクロノス堂に残してきたトビーのことが少し気がかりでしたが……」
「それなら心配いらないわ」
エルネスタが柔らかく目を細めた。
「クラリスが手配してくれたわ。下町の腕利きたちが、見張りとしてクロノス堂の周囲を密かに固めている。トビー君には『親方は警察の特務依頼で出張中だ』と伝えてあるそうよ。……あの子の笑顔を守るためにも、私たちは負けるわけにはいかないの」
「……感謝します、警視殿」
シオンは深く息を吸い込み、エルネスタの澄んだ青い瞳を、真っ直ぐに見つめ返した。
「私には、警察の腐敗した銃口の前に立ちはだかり、法と正義のもとで悪を裁いてくれる、世界で一番気高く、美しいバディがついていますから」
「っ……!」
エルネスタの胸が、トクンと大きく跳ねた。
バディ。
彼が口にしたその言葉の響きが、どんな甘美な賛辞よりも深く、エルネスタの孤独な魂を満たしていった。
父の厳しい期待に縛られ、冷徹な仮面を被り続けてきた彼女が、生まれて初めて見出した、心から魂を預け合える対等な存在。
彼女は頬を微かに林檎のように染めながらも、凛とした誇り高い笑みを浮かべ、白手袋の右手を真っ直ぐに差し出した。
「ええ、その通りよ、シオン。私の銃とバッジは、悪徳に傅くためのものではない。真実を求める者のためにあるわ。……明日の朝十時、あなたの作った時計の罪は、私が法のもとで必ず雪いでみせる」
「ええ。そして、私があなたの母上の形見時計を、必ず直してみせましょう」
シオンがその手を力強く握り返した。
白手袋越しに伝わる、エルネスタの温もり。
冷徹なエリート女性警視と、下町の寡黙な天才時計職人。
二人の指先が固く結ばれ、冬の冷たい風の中で、魂の共闘の契約が完全に結ばれた。
ゴオオオオオン――。
帝都の巨大な大時計塔から、午後三時を告げる重厚な鐘の音が響き渡る。
運命の審判まで、あと十九時間。
悪意によって仕組まれた鉄壁のアリバイを粉砕し、奪われた時間を取り戻すための、反撃のカウントダウンが、今、静かに幕を開けた!




