第45話:入手した決定打~ジュリアンが持ち去った【秘密金庫の鍵】~
地下セーフハウスの作業机の上。
緑色のガラスホヤを被せた真鍮ランプの青白い光の下で、シオンはクラリスから預かった真鍮の星型鍵を、キズミ(拡大鏡)を右目に嵌めて無言で凝視していた。
部屋の中には、ピンセットが金属を擦る微細な音と、壁の柱時計が刻む規則的なチクタク音だけが響いている。
「……見事な工芸品ですね」
シオンが低く呟いた。
「鍵の軸には、極小の真鍮製遊星歯車が内蔵されている。ビット(鍵山)の星型の突起は固定されておらず、シリンダー錠の奥にあるカムと噛み合うことで、内部の歯車が回転し、鍵山の形状が変形する二重認証構造だ。複製は物理的に不可能。間違いなく、バローニ侯爵邸の地下金庫のためだけに特注された唯一無二の鍵です」
「それだけじゃないわ、シオン。ここを見て」
エルネスタが白手袋を嵌めた指先で、鍵の根本、星型の突起と持ち手の境界にある極小の溝を指し示した。
そこには、乾いて赤黒く変色した、微小な付着物がこびりついていた。
エルネスタは腰の捜査鞄から、携帯用の鑑識試薬セットを取り出した。
小瓶からルミノール試薬と過酸化水素水の混合液を脱脂綿に一滴垂らし、ピンセットで鍵の溝の赤黒い付着物を極微量だけ拭い取る。
過酸化水素が血液中のヘモグロビンに含まれるヘム鉄と触れ合い、触媒反応によって活性酸素が発生する。
そして、作業机のランプの灯りを吹き消した。
地下室が完全な闇に包まれた、その瞬間――。
エルネスタの手元で、脱脂綿の先端が、幻想的で鮮烈な青白い燐光を放ち始めた!
化学発光によって暗闇に浮かび上がる、冷徹な青い光。
「……ルミノール反応陽性」
暗闇の中で、エルネスタの青い瞳が美しく輝いた。
「間違いなく、人間の血液よ。そしてこの血痕の酸化度合いと結晶の乾燥状態は……付着してから二十四時間以内。昨夜、バローニ侯爵が書斎で毒殺された時刻と完全に一致するわ」
シオンがランプを再び灯すと、二人の視線が交錯した。
「ジュリアンは、昨夜の犯行時刻、父親の首筋に毒針を刺した直後、まだ温かい遺体の懐からこの鍵を力任せに奪い取ったのだ」
シオンが静かに推理を紡ぎ出す。
「父親の首筋から噴き出した微量の血液が、ジュリアンの指先を介して、この鍵の溝へと転写された。ジュリアンは急いでチェス盤の前へ戻るため、鍵の血を拭き取る余裕がなかった。そして、その鍵を持って地下庭園へ急ぎ、暗渠の隠し場所に一時保管した……そこを、クラリスが回収したというわけだ」
「決定的な物証よ!」
エルネスタの声に、勝利の熱が宿る。
「現場にいなかったはずのジュリアンが、なぜ被害者の血痕が付着した鍵を所持していたのか。この血痕の血液型が侯爵のものと一致すれば、ジュリアンが犯行現場に立ち入っていた動かぬ証拠になるわ!」
「……ですが、警視殿」
シオンは興奮するエルネスタを制するように、冷静に首を横に振った。
「これだけで、警察の腐敗幹部や貴族院の裁判官を納得させられるとお思いですか?」
エルネスタの表情がピシリと凍りついた。
「どういうこと……?」
「ジュリアンには、帝都屈指の悪徳弁護士団がついています」
シオンは鍵を机の上に静かに置いた。
「法廷にこの鍵を突き出せば、奴らはこう主張するでしょう。『この鍵は、父が生前にジュリアン様に正式に託した家宝である。血痕など、下町の怪盗や反逆者であるエルネスタ警視が、後から捏造して付着させた違法収集証拠に過ぎない』と。現に、この鍵を持ち出したのは令状を持たない元怪盗のクラリスであり、警察の公式な捜索手続を経ていません。上層部は喜んでその弁明を採用し、証拠能力を否定するでしょう」
「くっ……!」
エルネスタは痛恨の表情で唇を噛んだ。
法の手続きを知り尽くしているからこそ、シオンの指摘の冷酷なまでの正しさが痛いほど理解できた。
権力と金で固められた司法の壁は、単なる一本の鍵の物証だけで打ち破れるほど、甘くはない。
「では……どうすればいいというの? 物証があっても、奴を裁けないというの!?」
「物証(鍵)は、最後の『止め』に使うのです」
シオンの琥珀色の瞳の奥に、絶対の自信を秘めた青白い光が灯った。
「物証を活かすためには……奴が誇る『鉄壁のアリバイ』そのものを、逃げ場のない完全な論理によって、白日の下に解体しなければならない。大時計の五分間の狂い。暖炉の熱によるバイメタル振り子の熱膨張。そして油の粘性抵抗。ジュリアンが『自らの不在証明』として拠って立つ物理的防壁を、作った私自身の手で粉々に打ち砕くのです」
「……物理法則による、法廷での完全解体ね」
エルネスタの瞳に、再び強い光が宿った。
「ええ。物証と論理のハイブリッド。二つが完璧に噛み合って初めて、時計の針は真実の時を指し示すのです」
シオンはピンセットを置き、白手袋の指先で星型の鍵を裏返した。
真鍮の表面に反射するランプの光を角度を変えながら透かすと、持ち手の付け根――わずか二ミリ四方の微小な余白に、肉眼では見落とすほど極微細なエングレービング(彫刻)が施されているのが見えた。
「……これは」
「何か見つけたの、シオン?」
エルネスタが身を乗り出し、シオンの肩越しにルーペの視界を覗き込んできた。ふわりと彼女のプラチナブロンドの髪から、微かに香る沈丁花のような清廉な匂いが鼻腔をくすぐる。
「見てください。星型の軸の裏に、極小の紋章が刻まれています」
キズミのレンズを二枚重ねにし、シオンは息を潜めて彫刻を読み解いた。
「……円形の中に配された『星と砂時計』。そしてその周囲に、微細な点刻で刻まれた『108』の数字……」
「星と砂時計……?」
エルネスタが小さく息を呑んだ。
「それって……帝都大時計塔の機構図面や、私の母の形見時計の内側に刻まれていたものと同じ紋章じゃないかしら……!?」
シオンの心臓が、鋭く激しく脈打った。
「ええ、間違いありません。十年前、帝都大時計塔の炎上事故で謎の死を遂げた私の恩師――クラウス・アルベルト技師が、自らの最高傑作にのみ刻み込んでいた職人符牒です。なぜ、バローニ侯爵邸の秘密金庫の特注鍵に、師の符牒が刻まれているのか……」
「クラウス技師の技術が……バローニ侯爵の犯罪組織の金庫に使われていたというの?」
「いえ、逆でしょう」
シオンは冷徹に眼を細め、琥珀色の瞳の奥に凍てつく炎を宿らせた。
「師は、悪徳貴族や裏組織の要求を拒絶したからこそ、十年前、大時計塔ごと口封じのために葬られたのだ。そして奴らは、師の工房から強奪した未完成の機構図面や特注部品を、自らの私利私欲のために転用した……。ジュリアンに私を紹介したという『影の演出家』もまた、師の技術と図面を手元に握り、帝都の闇を操っているに違いない」
すべての線が、一本の不可視の鋼鉄のワイヤーとなって収束していく。
シオンが偽装屋として生きるきっかけとなった恩師の死。
エルネスタが警察官として追い続けてきた母の死の真相。
そして、下町の子供たちを脅かす人身売買と高利貸しの巨悪。
それらすべての交差点に、あの『大時計のアリバイ』と、傲慢なる放蕩息子ジュリアン・フォン・バローニが立っているのだ。
「ジュリアンは、私をただの都合のいい下町の時計屋と侮り、使い捨ての身代わりにしようとした」
シオンは星型鍵を専用のビロードの小袋に収め、胸のポケットへと滑り込ませた。
「だが、職人の誇りを踏みにじり、時間を冒涜した報いは……彼自身の拠り所である『大時計のアリバイ』を、この手で完全に解体することで支払わせる。逃げ場など、一分一秒たりとも残しません」
「ええ。私も全力であなたを守り、その告発を帝国の法廷で完遂させてみせるわ」
二人の眼差しが固く交わされ、地下セーフハウスの張り詰めた空気の中に、確固たる勝利への決意が満ちていった。




