第44話:情報屋クラリス登場~「坊や、面白いことになってるじゃない」~
「……星型の真鍮鍵」
シオンの琥珀色の瞳の奥に、鋭利な閃光が走った。
先ほど酒場『錆びた錨亭』で隻眼のバルドが語っていた、バローニ侯爵邸の広大な地下深く、旧運河の暗渠に面した場所に眠る巨大な特殊合金製【秘密金庫】――帝都の警察上層部や貴族院議員への賄賂記録、そして下町の孤児たちを売り飛ばした人身売買リストが収められた金庫を開ける、世界でたった一本の鍵。
「立ち話もなんだし、場所を変えましょうか。あいつらの増援が嗅ぎつけてくる前にね」
クラリスは鍵を器用に指先で弄び、軽快に宙へ放り投げて胸元のキャットスーツの谷間へと滑り込ませると、猫のように音のない足取りで波止場の奥の暗渠へと二人を先導した。
二人が連れてこられたのは、下町の古い骨董品街の外れ、煤けたレンガ造りの雑居ビルの地下にひっそりと隠された、クラリスの極秘セーフハウスだった。
表向きは、埃を被ったアンティーク時計や真鍮の天球儀、色褪せたタロットカードが所狭しと並ぶ怪しげな骨董店『ベルンシュタイン堂』。
だが、店の最深部に鎮座する等身大の巨大な姿見の鏡の枠に、クラリスが特定の順序で触れると――カチャリと隠しラッチが外れ、鏡全体が回転扉となって奥の隠し部屋へと通じていた。
その先には、分厚い防音鉛板と鉄扉で厳重に密閉された、驚くべき情報空間が広がっていた。
部屋の中央には、真鍮の歯車とゼンマイ仕掛けで動く精巧な自動人形が、カタカタと音を立てて暗号電信のモールス信号を紙テープに印字し続けている。
四方の壁一面には、帝都全土の立体的な上下水道・地下鉄道網の図面、警察庁や保安局の幹部、貴族院の重鎮たちの顔写真とスキャンダルを記した相関図が、赤い糸で複雑に結ばれていた。
空気中には、古い羊皮紙の匂いと、オイルランプの温かな油煙、そしてクラリスが愛用するスパイシーな白檀の香水が漂っている。
「どうぞ、安物だけどお茶でも淹れてあげるわ」
クラリスが真鍮のケトルをストーブに掛け、素焼きのティーカップに注いだのは、シナモンと丁子を効かせた下町特有の濃厚なルフナ紅茶だった。
「さて……ジュリアン坊ちゃんの逃走計画について、私が掴んだ最新の裏情報を教えてあげるわね」
クラリスは相関図の一角、ジュリアン・フォン・バローニの写真を指先でトントンと叩いた。
「ジュリアンはね、昨夜親父の首に毒針を刺した直後から、すべて計算通りに動いているのよ。警察の見張りを金貨で買収して地下庭園に忍び込み、金庫の鍵を探していたけれど、私に先を越されたことにはまだ気づいていないわ。あいつの真の目的は、単なる侯爵家の家督と表の遺産を継ぐことじゃないの」
「……何が狙いなのですか?」
エルネスタが軍服の襟を正し、冷徹な眼差しで問い詰める。
「国外への高飛びよ」
クラリスは嘲笑を浮かべ、カップの紅茶を一口すすった。
「あいつは、父親が遺した地下金庫の中身……警察上層部や貴族院議員たちの汚職記録と、下町の孤児たちを売り飛ばす国際人身売買ルートの極秘権利書を、隣国の巨大犯罪シンジケートへ金貨数万枚で売り払う密約を交わしているの。明日の午前十時、正式に遺産相続の宣誓式を済ませて侯爵位と貴族の不逮捕特権を手に入れた瞬間、裏帳簿を持って帝都を脱出する手はずになっているわ」
「そんな……! そんな破廉恥な大罪人を、警察が見逃すはずがありません!」
エルネスタが拳を強く握りしめ、テーブルを叩いた。だが、クラリスは哀れむような目で彼女を見つめた。
「お嬢様警視、世間知らずもいい加減にしなさいな。警察上層部のボールドウィン中将や保安局長たち自身が、その帳簿に名前を書かれているのよ? ジュリアンが帳簿を外国へ持ち去って口を噤んでくれるなら、警察幹部にとっては願ったり叶ったりなのよ。だからこそ、今朝の捜査打ち切り命令が出たの。警察組織そのものが、ジュリアンの逃亡を全力で手引きしているのよ」
「っ……!」
エルネスタの唇が、激しい悔しさに震えた。
自らが命を懸けて仕えてきた「帝国の警察」という正義の砦が、腐敗の泥沼に塗れて犯罪者の共犯者へと成り下がっている。その冷酷な現実に、誇り高き公爵令嬢の胸は張り裂けんばかりだった。
だが、クラリスはさらに衝撃的な言葉を重ねた。
「それともう一つ、シオン。……あなたにとって、もっと重要な情報よ」
「私に……?」
「ジュリアン坊ちゃんに、『下町・真鍮小路のクロノス堂のシオンなら、熱膨張と摩擦油を使って時間を狂わせる完璧な不在証明を作れる』と耳打ちした男がいるわ」
シオンの息が止まった。
「……誰だ、その男は」
「裏社会で『影の演出家』と呼ばれている謎のフィクサーよ。バローニ侯爵邸の毒殺事件は、単なる放蕩息子の遺産目当ての犯行じゃない。あいつは……最初から、あなたをこの殺人劇に巻き込み、アリバイ工作の共犯者に仕立て上げるよう、ジュリアンを裏から巧みに操っていたのよ」
「私を……巻き込むため……?」
シオンの背筋に、冷たい戦慄が走った。
十年前に暗殺された恩師クラウス・アルベルトの死。エルネスタの母の壊れた懐中時計。そして、自分を罠に嵌めた見えざる黒幕の影。
すべてが、一本の不可視の鋼鉄の糸で繋がっている――シオンの怜悧な直感が、そう激しく警鐘を鳴らしていた。
「まあ、そんな怖い顔しちゃって!」
クラリスが急に悪戯っぽい表情に戻り、シオンの肩をポンと叩いた。
「でも安心なさいな、シオン坊や。このクラリスお姉さんがついてるんだから! ……それにしてもお嬢様警視、シオンに惚れちゃダメよ? こいつ、時計のことしか頭にない偏屈なんだから」
「だ、誰がこんな偏屈男に……! 私は職務上の連帯責任として行動しているだけです!」
エルネスタがカッと顔を赤らめ、そっぽを向いた。
その初々しい反応に、クラリスは「はいはい、ごちそうさま」と楽しそうに肩をすくめた。




