第42話:高鳴る心拍音~「……近いわ、シオン」「動かないでください」~
木箱とレンガ壁の間の、幅わずか五十センチの闇。
外の敷石の上では、二人の刺客が立ち止まったまま、油断なく周囲の微細な空気の揺らぎを探っていた。
「おい、この辺りから微かに女の香水の匂いがしねえか?」
「気のせいだろ、鼻が曲がるような魚油と重油の臭いしかしねえよ。だが……念のため、この木箱の裏の隙間も見ておくか」
ジャリ……ジャリ……と砂利を踏む不快な靴音が、二人が潜む隙間の入り口へと確実に近づいてくる。
青黒い毒液が鈍く光るダガーの抜き身の切先が、木箱の角からヌッと突き出され、隙間の闇をまさぐるように左右へと振られた。
切先がシオンのコートの肩口をかすめるまで、あと数センチメートル。
あと一歩、あと半歩男が頭を突っ込んで視線を落とせば、暗闇の中に身を潜める二人の姿は白日の下に晒される。
「…………ッ!」
エルネスタの全身が、極度の緊張と恐怖で強張った。
彼女の早鐘を打つような心拍が、一分間に百二十回を超えるハイペースでシオンの胸板を激しく叩く。
呼吸を止めれば止めるほど、肺の中の酸素が枯渇し、血管が収縮して、かえって心臓の脈動が鼓膜にドクドクと響き渡ってしまう。
このままでは、心拍の振動や軍服の布擦れのわずかな摩擦音すら、死線をくぐり抜けてきた暗殺者の耳に察知されかねない。
シオンは彼女の細い肩をさらに力強く抱き寄せ、自らの右腕を彼女の後頭部へと回すと、そのプラチナブロンドの頭を自らの胸元へと優しく沈めさせた。
シオンの厚手の作業用シャツ越しに、彼女の額と鼻先がすっぽりと覆い隠される。
シオンの左手が、彼女の華奢な背中を静かになだめるように、ゆっくりと撫でた。
――大丈夫だ、私を信じなさい。
言葉はなくとも、その掌の温かな重みと確かな包容力が、エルネスタの全身を苛んでいた氷のような恐怖を、優しく解きほぐしていった。
(この男……)
シオンの胸元に顔を埋めたエルネスタは、彼のシャツ越しに響いてくる、力強く規則正しい心拍音に耳を澄ませていた。
どんな極限の危機的状況にあっても決して表情を崩さない、絶対の理性を誇る時計職人。
だが――その胸の奥から響いてくる拍動は、普段の彼からは想像もつかないほど速く、熱く、激しく高鳴っていた。
エルネスタの心臓と同じテンポで、激しく共鳴するように命を刻んでいる。
(シオンも……緊張しているの? それとも……私をこんな風に抱きしめているから……?)
そんな少女のような考えが不意に頭をよぎった瞬間、エルネスタの耳たぶがカッと熱くなり、胸の奥がきゅっと締め付けられるような甘美な痛みを覚えた。
だが、シオンの頭脳は、その甘い熱情のただ中にあってなお、絶対零度の冷徹な物理計算を完了させていた。
シオンはコートの胸ポケットに忍ばせていた、極小の真鍮製時計ネジ(直径わずか二ミリ、重量零点三グラム)を、右手の親指と人差し指の腹で密かに摘み出した。
向かい風の風速、空気密度、初速、放物線の軌道、そして着弾時に生じる音波の音響心理学的誘導効果。
シオンは木箱の隙間のわずかな開口部から、二十メートル以上離れた運河沿いの資材小屋のトタン屋根の角へと狙いを定めた。
そして――大時計のテンプ・ゼンマイを精密ピンセットで弾く時のように、指先の腱のバネを一気に解放した!
ピンッ!
目に見えぬほどの速度で放たれた極小の真鍮ネジが、空気を切り裂き、倉庫街の頭上を美しい放物線を描いて飛翔した。
そして――カランッ! コロコロコロコロ……!
二十メートル先のトタン屋根の上で、乾いた鋭い金属音が響き渡り、小石が勢いよく転がり落ちるような連続音を立てた。
「おい、あっちだ!」「トタン屋根の上を逃げやがったぞ! 追え、逃がすな!」
木箱の前にいた二人の刺客が即座に反応し、抜き身のダガーを構えてトタン屋根の方向へと全速力で駆け去っていった。
遠ざかっていく荒々しい足音と怒号。
やがて、波止場には冷たい潮風のざわめきと、遠くで鳴く海鳥の声だけが戻ってきた。
「…………ふぅ」
シオンがゆっくりと肺の中の空気を吐き出し、張り詰めていた肩の力をわずかに緩めた。
だが――二人の身体は、依然として木箱の隙間でぴったりと密着したままだった。
シオンの逞しい腕の中にすっぽりと収まったエルネスタ。
エルネスタの両手は、無意識のうちにシオンのシャツの裾をぎゅっと固く握りしめていた。
あまりの密着の温もりと、お互いの鼓動の名残惜しさに、二人は数秒間、暗闇の中で言葉を失って見つめ合っていた。
「……あの、エルネスタ警視」
「……な、何かしら」
「刺客たちは、もう完全に立ち去りましたが……そろそろ、出ませんか? 少し、足が痺れてきました」
「っ……!?」
我に返ったエルネスタが、弾かれたようにシオンの胸を両手で突き放した。
「だ、誰が抱きついていたっていうのよ! あなたが無理やり引き込んだんじゃないの! ば、バカ時計屋!」
顔を耳まで真っ赤にしてプラチナブロンドの髪をかき上げるエルネスタ。
シオンもまた、微かに気まずそうに視線を逸らし、小さく咳払いをした。
「失礼しました。ですが、お怪我がなくて何よりです」
その時だった。
二人の頭上――高さ三メートルを超える工作機械コンテナの天板の上から、鈴を転がすような妖艶で、心底愉快そうな女の笑い声が降ってきた。
「キャハハハッ! いやあ、ごちそうさま! 帝都警察の誇り高き『氷の令嬢』様が、こんな下町の薄汚い木箱の裏で、しがない時計屋の坊やと熱烈な抱擁劇を演じてるなんて……帝都日報の三面記事に売ったら金貨百枚にはなるわねぇ?」




