第41話:至近距離の潜伏~狭い木箱の裏で重なる二人の息遣い~
倉庫の裏手へ脱出した二人を待ち受けていたのは、迷路のように入り組んだ下町の荷揚げ港湾区だった。
しかし、そこは決して安息の地ではなかった。
ピューーッ! ピーーーッ!
冷たい風に乗って、鋭利な金属製の呼子笛の音が、運河沿いの路地から四方八方へと響き渡っていた。
「逃げたぞ! 裏の荷揚げ場方面だ!」「運河の跳ね橋と路地をすべて封鎖しろ! 一歩も通すな!」
高架下の銃撃とグレネードの大爆発を聞きつけた『影の演出家』の増援部隊が、すでにこの一帯に何重もの捜索網を張り巡らせていたのだ。
十名を超える黒革鎧の武装集団が、抜身の刃を手に、波止場の木箱の間を組織的にしらみつぶしに捜索している足音が迫ってくる。
海風が運河の黒い水面を波立たせ、重油の膜が鈍く光る。開けた場所へ出れば、たちまち発見されて包囲されるのは明白だった。
「……こっちです」
シオンは周囲の死角を瞬時に割り出すと、エルネスタの手を強く引き、波止場の赤レンガ倉庫の壁際へと滑り込んだ。
そこには、運河から蒸気船へと積み込まれるのを待つ巨大な木製の工作機械輸送コンテナが、天井近くまでびっしりと積み上げられていた。
コンテナの側面と、風雨に晒されて煤けた赤レンガ壁の間に残された空間は――幅わずか五十センチメートル。
大人が一人、横向きになって辛うじて滑り込める程度の、暗く狭隘な隙間だった。
「シオン、こんな狭いところ……」「静かに。息を殺すんです」
シオンは躊躇うことなくエルネスタの背中に手を回し、彼女の身体を隙間の最深部、影の底へと引き入れた。
そして、自らの身体で彼女を外光から完全に覆い隠すようにして、木箱の隙間へと身を沈めた。
――トン。
二人の身体が、一切の隙間なく密着した。
背中を冷たいレンガの壁に押し当てられ、正面からはシオンの逞しい胸板が、エルネスタの華奢で引き締まった身体をすっぽりと包み込む体勢。
背後からは凍てつくようなレンガの冷気が肌を刺す一方で、正面のシオンと触れ合う部分からは、驚くほど熱い体温が伝わってくる。
薄い軍服の布地越しに、エルネスタのしなやかな腰のくびれ、そして女性らしい柔らかな胸の感触が、シオンの胸板へとダイレクトに押し付けられていた。
シオンの顎先は、エルネスタのプラチナブロンドの髪に触れそうなほど近く、エルネスタの吐息が、シオンの喉元やシャツの隙間へと、温かく、小刻みに吹きかかる。
ふわりと鼻腔をくすぐったのは――硝煙と煤の匂いの中にあってなお気品を失わない、清潔な石鹸と微かなラベンダーの香りだった。
「…………っ!」
エルネスタの全身が、ビクッと跳ねるように硬直した。
名門ヴァレンタイン公爵家の令嬢として育ち、社交界の男たちをその氷のような眼差しで寄せ付けず、警察に入ってからも「氷の令嬢」と恐れられてきた彼女にとって、これほど至近距離で異性と密着することなど、生まれて初めての経験だった。
普段の冷徹なポーカーフェイスは瞬時に粉々に砕け散り、その陶器のような白い肌は、額から頬、首筋、そして小さな耳たぶの先端に至るまで、瞬く間に林檎のように鮮やかな朱色に染め上げられた。
「……し、シオン……っ! き、近すぎるわ……離れなさい……!」
エルネスタが蚊の鳴くような震える声で囁き、シオンの胸を手で押し返そうとする。
だが、シオンはその震える細い手をそっと自らの左手で包み込み、指を絡めて静かに制した。
「動かないでください」
シオンの低く落ち着いた、だが微かに熱を帯びた声が、エルネスタの耳朶に直接吹き込まれた。
「木箱に触れれば、きしみ音が外へ漏れます。見つかれば、今度こそ二人とも蜂の巣だ」
その瞬間――ザッ、ザッ、ザッ。
コンテナのすぐ外側、わずか三十センチ先の敷石を、二人の刺客の重い軍靴が砂利を踏みしめながら通り過ぎていった。
「おい、こっちにはいないぞ」「足跡が途切れてる、向こうの船着場を当たれ!」
交わされる男たちの荒い息遣い。抜身のダガーが木箱の角をガリガリと擦る不快な金属音。
刺客の一人が立ち止まり、二人が潜む木箱の隙間へと顔を向けかけた。
エルネスタは息を完全に止め、恐怖と緊張に青い瞳を大きく見開いた。
シオンは彼女を庇うようにさらに腕に力を込め、自らの広い肩で彼女を影の底へと完全に抱き寄せ、彼女の頭を自分の胸元へと優しく押し当てた。
二人の距離は、完全にゼロになった。
トクン、トクン、トクン、トクン――。
極限の静寂の中、暗闇の隙間に響き渡る命の鼓動。
エルネスタの早鐘を打つような激しい心拍が、胸の接触面を通じて、シオンの胸板へと力強く伝わってくる。
そして――エルネスタの額と耳にも、シオンの胸の奥から響いてくる、深く、力強く、そしていつも冷静沈着な彼にしては驚くほど速く高鳴っている心拍音が、はっきりと届いていた。
(シオンも……こんなに心臓を速く打たせている……)
エルネスタの胸の奥に、甘美で、目眩のするような熱い感情が急速に広がっていった。
シオンのシャツから漂う、機械油と上等な紅茶の葉、そして温かな男の匂い。
冷徹なエリート警視と、下町の寡黙な時計職人。
暗殺者たちの包囲網のただ中、死と隣り合わせの暗闇の隙間で、二人の命の鼓動が、まるでひとつの精密なクロノメーターのように、完璧に重なり合っていた。




