第4話:奇妙な依頼~「父を欺く不在証明を作ってくれ」~
工房の壁を埋め尽くす大小の時計たちが、チクタク、チクタクと一定のリズムで重なり合う金属音を刻み続けている。規則正しいその拍動は、まるで人間の心臓の鼓動を外側から強制的に支配するかのような静かな圧迫感を孕んでいた。
シオンは作業用の丸椅子に深く腰掛け、両手の指を組み、テーブルを挟んでジュリアンの青ざめた顔をじっと見据えた。
「父上を欺いてまで、明晩、屋敷を抜け出さねばならない理由とは何です? 不在証明を設計するにしても、目的、移動ルート、そして想定される障害が分からなければ、精緻な時間の図面を引くことはできません」
ジュリアンは熱い陶器のカップを両手で包み込むように握りしめ、視線をわずかに斜め下へと落とした。その指先が、微かに震えている。
「……恋人がいるんだ」
「恋人?」
「ああ。下町の平民の娘だ。帝都中央広場で花を売っている……エレーヌという名の、慎ましく、太陽のように美しい娘だ」
ジュリアンは切々と語り始めた。
身分違いの恋。厳格で暴虐な父・バローニ侯爵は、帝国軍閥の最大手である将軍の娘とジュリアンを政略結婚させ、バローニ家の権勢をさらに盤石にしようと画策していること。
もし平民の娘との密会が知られれば、侯爵の手下である裏社会の暗殺部隊によって、彼女とその家族は人知れず川の底へ沈められるだろうということ。
「明晩、彼女と落ち合い、帝都を出る密航船の手配を済ませたい。彼女を守るためには、この街を捨てるしかないんだ!」
ジュリアンの瞳には涙が浮かび、声には真実味のある熱情が籠もっているように見えた。
だが――シオンの研ぎ澄まされた観察眼は、青年の言葉と肉体の微細な不一致を、冷酷なまでに拾い上げていた。
恋人を語る際、人間の瞳は通常、過去の愛しい情景を思い描いて右上を彷徨うか、相手の理解を求めて瞳孔を開きながら見つめてくるものだ。だがジュリアンの視線は、一瞬だけ左下の床を這うように泳ぎ、口角の筋肉がわずかに引き攣っていた。
さらに、彼が語る「エレーヌ」の描写は、帝都の三文安酒場で売られている大衆恋愛小説の常套句と一言一句違わなかった。血肉の通った生身の人間の温もりや、具体的な生活の匂いが、その言葉からは完全に抜け落ちていたのだ。
「(……嘘をついているな)」
シオンは内心で氷のように冷徹に結論づけた。
恋人との駆け落ち。平民の娘を救う悲劇の貴公子。いかにも下町の職人の同情を買いやすい、都合のいい三文芝居の台本だ。
だが、シオンの表の顔は下町の時計修理屋であり、裏の顔は時間を売る偽装屋にすぎない。依頼人の私生活の道徳的な正しさを裁く裁判官ではないのだ。
「なるほど。愛する女性を守るための決死の密会というわけですか。……で、要求される時間の枠はどれほどです?」
「明日の夜九時から、夜十一時までのきっかり二時間だ」
ジュリアンは即座に答えた。そこには一切の迷いがなく、数字があまりにも整然としていた。
「明晩九時、屋敷の老執事が僕の書斎に夜食の紅茶を運んでくる。その時、父も執事も僕が書斎にいることを確認する手はずになっている。そして夜十一時、執事が夜食の食器を下げに来る。この二時間の間に、僕は書斎の隠し扉から抜け出し、下町の船着場まで馬を走らせて彼女と落ち合い、再び十一時までに書斎へ戻ってこなければならない」
「つまり、執事や使用人たちの証言として『ジュリアン様は午後九時から十一時まで、一歩も書斎を出ずに机に向かっていた』という完璧な状況を作ればいいのですね?」
「そうだ! だが、替え玉など通用しないぞ! 父の飼い犬である老執事は、僕が赤ん坊の頃から屋敷に仕えている男だ。背格好の似た役者を座らせたところで、瞬時に見破られて首を刎ねられる!」
シオンは静かに首を横に振った。
「替え玉などという前時代的で粗雑な手法は、私の流儀ではありませんよ。人間は誰しも、他人の顔だけで個体を識別しているわけではありません。歩幅、呼吸の深さ、視線の高さ、体臭、そして椅子に腰掛けた際の重心の掛け方――日常を共にする執事の無意識の感覚を、偽物の人間で騙し切ることは不可能です」
「……では、どうするんだ? 僕が部屋にいないのに、どうやって僕がいると思わせる!?」
「人間を偽装するのではないのです、ジュリアン様。『時間』そのものを偽装するのですよ」
「時間を……偽装する?」
理解が追いつかないジュリアンに対し、シオンは静かに立ち上がり、壁に掛かった二つの振り子時計の前に立った。
「人間は誰しも、自分の五感や記憶を過信しています。ですが実際には、人間ほど外部の指標に簡単に騙される脆弱な生き物はいません。部屋の大時計の針が九時半を指していれば、脳は疑うことなく『今は九時半だ』と確信し、その記憶を強固に定着させる。十時を指していれば、十時だと錯覚する」
シオンは長い指先で、振り子の重りを優雅に揺らしてみせた。
「時間を支配する物理法則――重力、摩擦、熱膨張、そして空気抵抗。それらをミリ単位で調律すれば、時計の針は人間の認識を置き去りにして進み、あるいは遅れる。その認知の歪みに生じるわずかな隙間に、あなたが存在しなかったはずの『空白の不在証明』を滑り込ませるのです」
シオンの語る論理は、物理工学の極致でありながら、ジュリアンにとっては悪魔の魔術のように響いた。
ジュリアンは息を呑み、額に滲んだ冷汗を手の甲で拭いながら、作業台の金貨の革袋を前へと押し出した。
「できるのか……? そんな神をも欺くような芸当が、本当に……お前の手で可能なのか……!?」
「神を冒涜しているのは、あなたの方ですよ、ジュリアン様。父親を欺き、時間を買い取ろうとしているのですからね」
シオンは淡々と金貨の革袋を引き寄せ、その口を解いて中身を改めた。黄金の冷たい輝きと、帝国の厳格な刻印。
断る理由はなかった。
バローニ侯爵という男が貧民街で行っている非道は、下町の誰もが知る事実だ。もしこの青年が、その悪逆な父親から逃れようとしているのなら、偽装の手を貸すことに何の躊躇いもない。
――たとえ、その瞳の奥に、恋人への愛などではなく、もっと暗く煮えたぎるような別の悪意が潜んでいたとしても。
「契約は成立です。金貨五十枚、前金として頂戴しましょう」
「お、おお……! 引き受けてくれるか……!」
「ええ。ただし、精緻な不在証明を構築するためには、あなたの屋敷の環境を直接見分する必要があります。部屋の容積、通気、そして何より大時計の機構そのものをね」
シオンは作業台の手帳を開き、黒い万年筆で明日の予定を素早く書き留めた。
眼鏡の奥の藍色の瞳が、冷徹な職人の光を帯びて妖しく煌めく。
「明日の正午、私はバローニ侯爵邸へ伺います。『定期点検の時計修理技師』としてね。あなたの書斎にある大時計――あれを、完全に私の支配下に置かせてもらいますよ」




