第3話:深夜のノック、青ざめた貴公子ジュリアン
トビーが寝静まった工房の闇を、鋭いノックの音が切り裂いた。
シオンは手元の作業ランプをあらかじめ絞り、陰影の中に自らの身を滑り込ませた。右手には、真鍮を削り出すためのずっしりと重い鋼鉄の角ヤスリ。相手が暴漢であれば、喉仏を一撃で砕くことができる武器だ。
「……誰だ。こんな深夜に、時計の修理屋に何の用だ」
シオンが低く、感情を押し殺した声で扉越しに問いかける。
外からは、激しい雨音に混じって、荒い息遣いが聞こえていた。まるで飢えた獣に追われ、ここまで全速力で逃げてきたかのような呼吸。
「開けてくれ……! 頼む、開けてくれ……! お前がシオンだな!? 『どんな時間でも買い取れる』という……あの時計屋だな!?」
震える男の声。だが、その発音には下町の平民には絶対に真似のできない、貴族特有の気位の高さと洗練されたイントネーションが色濃く残っていた。
シオンはわずかに眉を寄せ、静かに閂を外した。
ギィ……と油の切れた蝶番が鳴り、ドアが細く開く。
吹き込んできた夜風と共に、ずぶ濡れの影が店先へと転がり込んできた。
身の丈はシオンと同じほど。二十代前半の若い男だ。
最高級のウールを贅沢に使った濃紺のマントを羽織っているが、裾は泥まみれに汚れ、雨水がボタボタと床の絨毯に染みを作っていた。
男がフードを跳ね除ける。
現れたのは、陶器のように青白く整った顔立ちをした貴公子だった。金色の巻き毛は額に張り付き、血走った瞳孔は恐怖と焦燥で異様なまでに拡大している。
「……ここは時計の修理屋ですよ、お客様。泥だらけの靴で踏み込まれては困りますね」
「金なら……金ならいくらでも払う! これを見ろ!」
青年は震える手でマントの内側に手を突っ込み、ずっしりと重い革袋を取り出すと、シオンの作業台の上へ乱暴に叩きつけた。
ジャラン、と鈍く重厚な金属音が響く。
革袋の口からこぼれ出たのは、帝国の造幣局が発行する純金製の大金貨だった。ざっと見ても五十枚――下町の労働者が十年汗水垂らして働いても拝めない大金だ。
「これでお前のアリバイを買いたい。……僕に、完璧な不在証明を作ってくれ!」
青年は縋り付くようにシオンの両肩を掴もうとした。
だがシオンは半歩身を引き、その手を冷ややかにかわすと、作業台の上の革袋を一瞥した。
「慌てないでいただきたい。紅茶でも淹れましょう。冷え切った身体では、正常な思考もできませんからね」
「紅茶など飲んでいる場合か! 一刻を争うんだ!」
「興奮した人間の依頼ほど、割に合わないものはありません。落ち着きなさい、ジュリアン・フォン・バローニ様」
シオンが平然とその名を口にした瞬間、青年の呼吸がピタリと止まった。
顔面からさらに血の気が引き、幽霊でも見たかのようにシオンを凝視する。
「な……ぜ……なぜ、僕の名を……!? 名乗ってなどいないぞ!?」
「観察ですよ、ジュリアン様」
シオンは静かにストーブの上のポットを傾け、二つの陶器のカップに湯気を立てるアッサムティーを注ぎながら言った。
「まず、そのずぶ濡れのマント。裏地に銀糸で施されているのは、帝国貴族院の紋章鑑に登録された『バローニ家の二重百合』の刺繍です。次に、シャツの袖口から覗く真鍮のカフスボタン。あれは先代バローニ侯爵が特注した、帝都工芸ギルドの限定品ですね」
「そ、それだけで……!?」
「それだけではありません。あなたの肌から漂うのは、貴族街の特権階級しか輸入を許されていない、南洋産ベルガモットの高級香水の香り。そして何より――」
シオンは青年の右手を指差した。
「あなたの右手の親指と人差し指の腹。そこには、良質な無煙炭をくべる際に付着した、極微細な黒い煤の粉が残っています。暖炉のある豪華な私室から、今夜急いで抜け出してきた証拠だ。……バローニ侯爵家の若き後継者ジュリアン様が、深夜の下町の時計屋に何の用ですか?」
流れるような完璧なプロファイリング。
ジュリアンは喉をゴクリと鳴らし、戦慄を隠せない様子で後ずさった。目の前の黒髪の時計屋が、ただの職人などではないことを、骨の髄まで理解したのだ。
「……噂は本当だったんだな。『時間を欺く悪魔の時計師』……」
「人聞きが悪いですね。私はただ、歯車とゼンマイに少しばかりの融通を利かせているだけの、しがない職人ですよ」
シオンは温かいカップをジュリアンの手に押し付けた。
カップの熱に触れ、青年の震えがようやく微かに治まる。ジュリアンは一気に紅茶を半分ほど呷り、吐息を漏らした。
「……父を、欺きたいんだ」
ジュリアンが絞り出すように言った。
「父……バローニ侯爵をだ。あの男は悪魔だ。屋敷のすべてを監視し、使用人も執事も全員があの男の飼い犬だ。僕は部屋を一歩出る自由すら奪われている」
「それで?」
「明日の夜……どうしても、屋敷を抜け出さなければならない理由がある。だが、もし父に外出が知れれば、僕は廃嫡され、地下牢に幽閉されるだろう。……頼む、シオン。明日の夜、僕が『絶対に書斎から一歩も出ていなかった』という、鉄壁のアリバイを組み立ててくれ!」




