第2話:孤児トビーと下町の焼きたてミートパイ
重厚な真鍮の閂を外すと、冷たい雨の飛沫と共に、強烈な安酒の饐えた匂いが工房内へと雪崩れ込んできた。
シオンがランタンを掲げると、そこに立っていたのは血相を変えた暗殺者でもなければ、警察の追手でもなかった。ただの、泥まみれになった近所の老鍛冶職人だった。
「う……うぃ~っ、シオンの坊主ぅ……! 鍵穴がよぉ、三つに見えて家に入れねえんだ……! 助けてくれぇ……」
「……ガレックさん。あなたの長屋は二軒隣ですよ。それに、鍵穴が増えて見えるのはあなたの眼球の乱視とアルコールのせいです」
シオンは溜息一つ漏らさず、慣れた手つきで老職人の襟首を掴むと、雨除けの庇の下を通って隣の長屋の玄関まで引きずっていき、鍵を開けて放り込んだ。
バタン、とドアを閉めて工房へ戻ると、トビーが胸を撫で下ろしながらへたり込んでいた。
「な、なんだよガレックのじいさんかよ……! おいら、てっきり借金取りか怖い憲兵が踏み込んできたのかと思ったぜ……」
「脅かすな。この界隈の夜中のノックなど、大半は泥酔した職人か、ぜんまいを巻きすぎて針をへし折った慌て者のどちらかだ。……だが、用心に越したことはない」
シオンはドアの閂を厳重に戻し、鍵穴に細い真鍮の棒を差し込んで内側から完全にロックした。
時計職人の指先は、街の微細な空気の歪みを敏感に察知していた。ここ数日、下町の路地裏を徘徊する浮浪者の目が妙に据わっている。夜警の巡回ルートも不自然に変更され、貴族街との境目にある検問所には、普段見かけない私服の憲兵が張り付いていた。
帝都の歯車は、確実にどこかで狂い始めている。
――翌日の昼下がり。
前夜の雨はからりと上がり、秋の柔らかな陽光が『真鍮小路』の石畳を黄金色に染め上げていた。
下町の大通りは、昼食を求める職人や行商人たちでごった返し、馬車の車輪の軋みと焼き魚や香辛料の匂いが充満している。
「親方ーっ! 見てくれよ、これ! 今日は大収穫だぜ!」
トビーが両手に大きな紙包みを抱え、満面の笑みを浮かべて跳ねるように戻ってきた。包み紙の隙間から、立ち上る湯気と共に香ばしいバターと焦げたパイ生地、そしてナツメグとブラックペッパーが効いた濃厚な肉汁の香りが鼻腔をくすぐる。
「ほう……『三匹の豚亭』の特製ミートパイか。贅沢をしたな、トビー。一個銀貨三枚はするはずだが」
「へへっ、聞いて驚くなよ! 肉屋の親父がさ、重さの天秤をごまかそうとしてたんだ。肉を乗せる皿の裏に、こっそり鉛の粒を貼り付けてやがったのをおいらが見破ってやったのさ! 『親父、この天秤は左に二オンス傾いてるぜ。親方に教わった重力加速度の計算と合わねえ!』って騒いだら、親父が青くなって口止めにこの焼き立てパイとリンゴを二個持たせてくれたんだ!」
「……悪知恵だけは一人前に育ったようだな」
シオンは苦笑しながら、作業台の上の工具を端へ寄せ、清潔な木皿を二つ並べた。
トビーがナイフでパイを真ん中から切り分けると、サクッという官能的な音と共に、粗挽きの牛ひき肉と飴色に炒めたタマネギが、溢れんばかりの肉汁と共に顔を出した。
二人は無言でパイにかぶりつく。
サクサクのパイ生地と、肉の旨味、そしてピリッとした香辛料の刺激が口いっぱいに広がる。
「うめぇ……! やっぱり肉は最高だな、親方!」
「ああ、実に美味い。……だがトビー、あまり市場の商人を論破して敵を作るなよ。賢すぎる子供は、この街では長生きできない」
「わかってるよ。でもさ、ずるい大人に騙されるのは絶対に嫌なんだ。……おいら、昔の仲間みたいになりたくないからさ」
トビーがパイを噛み締めながら、ふと視線を落とした。
少年の脳裏をよぎったのは、三年前の暗い記憶だった。
身寄りのないストリートチルドレンだったトビーは、下町の路上で飢えと寒さに震えながら、仲間たちとゴミ箱を漁る日々を送っていた。だがある日、仲間たちが一人、また一人と姿を消していった。「いい働き口がある」と甘い言葉で孤児たちを誘い出し、馬車に乗せて連れ去っていった黒塗りの馬車。
トビーも捕まりそうになり、必死で泥水を跳ね上げて逃げ込み、行き倒れたのがこのクロノス堂の軒下だった。
雪の降る夜、凍死しかけていたトビーを抱き上げ、温かい生姜湯を飲ませてくれたのがシオンだったのだ。
「……街の掲示板を見たか、トビー」
シオンが静かに紅茶を啜りながら言った。
「うん……見たよ。バローニ侯爵の屋敷を取り囲んで、下町の住民が暴動を起こしかけたってビラが貼ってあった。『子供を返せ』『違法な借金で家を奪うな』って……」
「バローニ侯爵。帝都屈指の資産家でありながら、裏では貧民街の住民を法外な利子で縛り上げ、返済できなくなった者を鉱山や国外へ人身売買していると噂される男だ」
「最低の豚野郎だ! あんな奴、時計のゼンマイで首を絞められて死んじまえばいいんだ!」
「言葉に気をつけなさい」
シオンは厳しく咎めたが、その瞳にはトビーと同じ、昏い怒りの炎が宿っていた。
法は弱者を守らない。警察も憲兵も、貴族のばら撒く金貨の前には盲目となる。それがこの帝都ルミナリアの絶対の現実だった。
「ご馳走様、親方。おいら、裏の真鍮屑を仕分けしてくるよ」
「ああ、頼む」
トビーが裏庭へと駆けていき、再び工房にはコチコチという規則正しい時計の鼓動だけが残された。
シオンは作業台の引き出しから、古びた懐中時計を取り出した。銀色のケースには、精緻な百合の紋章が刻印されている。だが、その内部機構は完全に砕け散り、針は十年前のあの日から一度も動いていない。
「……時は止まらない。だが、歪めることはできる」
シオンは独り呟き、時計をポケットへと滑り込ませた。
昼の穏やかな光はやがて消え去り、夕闇が帝都を包み、再び冷たい夜が訪れる。
そして――時計の針が重なり合い、帝都大聖堂の鐘が、荘厳に午前零時を告げた。
ゴーン……ゴーン……。
鐘の余韻が夜気に溶け去った、まさにその瞬間。
ドンドン! ドンドンドン!
昨夜の泥酔者とは明らかに違う。
冷徹で、焦燥に駆られ、それでいて絶対に他人に聞かれてはならないと知っている者が放つ、低く、切迫したノックの音が、クロノス堂の扉を激しく震わせた。




