第38話:路地裏の尾行~シオンを追う謎の刺客たち~
午前十一時。
帝都の上空を重く覆っていた朝霧は、太陽の昇騰とともにわずかに薄れ、鈍色の雲間から冷たい冬の陽光が筋となって地上へと降り注いでいた。
だが、旧運河沿いの湿地帯には、依然として湿り気を帯びた石炭の煤煙とヘドロの臭気が、重苦しく澱んでいる。
シオンはトビーを、下町でも古くから続く老舗ベーカリー『粉挽き鳥亭』の主人のもとへ預けていた。
かつてシオンが、店の大切な大型小麦粉粉砕機の破損したベベルギアを、特製の真鍮合金から削り出して無償で修理してやった恩義がある。
主人はトビーの事情を深く問うこともなく、快く店の最深部にある頑丈な小麦粉保管庫の屋根裏部屋に少年を匿うことを引き受けてくれた。
「親方、絶対に無事で帰ってきてね! 約束だよ!」「ああ、時計の針は必ず一周して元に戻る。心配いらないよ」
そうトビーと指切りを交わし、シオンは単身で下町を抜け、貴族街と官庁街が隣接する帝都中央区へと足を早めていた。
バローニ侯爵邸で行われるジュリアンの遺産相続宣誓式、そして警察による「事件捜査の正式終結」の発表まで、残された猶予はあと一時間もない。
シオンが選んだルートは、下町の運河地帯と高台の貴族街を最短距離で結ぶ、旧帝都高架鉄道の巨大な連続レンガ造りアーチ下通路だった。
帝都建設初期に築かれたその高架橋は、百年の風雪と煤煙によって黒褐色に変色し、頭上数十メートルを走る鉄橋からは、ゴオオオオという石炭貨物列車の重低音と地響きが絶え間なく降ってくる。
通路の壁面には、帝都地下工廠へと高温高圧の過熱蒸気を送り込む、直径一メートルを超える巨大な鋳鉄製主蒸気管が縦横に張り巡らされ、接合部のフランジからは、シューッ、シューッという断続的な排気音が、狭いトンネル内に反響していた。
湿った石畳の上には黒い油混じりの水たまりが点在し、人通りのない薄暗い高架下には、冷たい隙間風が吹き抜けている。
濡れた敷石を踏みしめるシオンの革靴の音。
――カツ、カツ、カツ。
その規則正しい歩行音に混じって――極めて微細な音響の乱れが、シオンの研ぎ澄まされた聴覚の琴線をかすめた。
――……サッ。
靴音の反響音の遅延。
トンネルのような閉鎖空間において、音波がレンガ壁に跳ね返って耳に戻るまでの反射時間は、空間の容積と壁との距離から瞬時に算出できる。
空気中の音速を毎秒三百四十メートルとすれば、幅五メートルのこのアーチ通路において、自らの足音の反射波は零点零一五秒以内に耳へ到達しなければならない。
だが、今シオンの鼓膜を叩いている反響には、零点二秒以上の明確な位相のズレを伴う、わずかに擦れるような靴底の沈み込みの音が、三つ……いや、四つ重なっていた。
(尾行されている)
シオンは歩調を一切乱さず、首の角度すら変えずに冷静に頭脳を回転させた。
足音の主たちの歩行周期は極めて短く、足裏全体で地面の振動を吸収し、石畳の凹凸に体重を分散させる、特殊な暗殺術の歩法。
昨夜、クロノス堂の工房を急襲してきた黒ずくめの刺客たち――裏社会の暗殺組織『影の演出家』の残党だ。
昨夜の襲撃では、工房を漁って帳簿や金庫を探すような躊躇いが見られた。だが、今背後から放たれている刺すような冷気には、一切の迷いがない。
彼らの殺意は、明確にシオンの心臓を射抜き、その口を永遠に塞ぐことだけに極限まで研ぎ澄まされていた。
ジュリアンが自邸へ戻った後に差し向けたのか、それともバローニ侯爵の秘密帳簿を守ろうとする警察上層部の腐敗派が動いたのか。
シオンは通路の曲がり角を直角に曲がり、小走りに速度を上げた。
背後の足音もまた、忍び足から明確な疾走音へと変化し、距離を一気に詰めてくる。
だが――角を曲がった先は、数日前の記録的豪雨によって崩落した赤レンガの瓦礫が山積みにされた、行き止まりの資材集積場だった。
「くっ……!」
シオンが足を止め、振り返った瞬間。
薄暗い高架下の闇から、黒い革鎧を纏い、顔を黒布で覆った四人の男たちが、影のように滑らかに姿を現した。
その首筋には、昨夜と同じ「黒い歯車の刺青」。
男たちの手には、すでにボルト(太矢)の装填を終えた小型の消音式クロスボウと、青黒い神経毒液が鈍く塗布された抜き身のダガーが構えられていた。
「逃げ場はないぜ、時計屋」
先頭に立つ筋骨隆々たる大男が、布越しに低く濁った嘲笑を響かせた。
「ジュリアン坊ちゃんの身辺を嗅ぎ回り、余計な帳簿の星型鍵を探しているようだな。お前がここで静かに冷たい骸になってくれれば、帝都の平和は保たれるんだよ」
四本のクロスボウの切先が、シオンの頭部、喉、そして心臓へと同時に向けられた。
距離はわずか七メートル。常人であれば、恐怖で膝から崩れ落ち、絶叫するだけの死の宣告。
だが――シオンの琥珀色の瞳は、恐怖など微塵も映していなかった。
シオンの視線は、刺客たちの背後、彼らの頭上わずか二メートルの壁面を走る、一本の巨大な鋳鉄製パイプへと固定されていた。
表面に白いアスベスト断熱材が巻かれた主蒸気管。
その真鍮製丸型圧力計の指針は、限界値を示す赤い危険ゾーンを、小刻みに激しく震わせながら指し示していた。
そして、その直下には――手動で余剰蒸気を外部へ緊急放出し、管の破裂を防ぐための、大型の十字型真鍮バルブ。
「……時計職人を怒らせると、蒸気で大火傷を負うことになりますよ」
シオンは静かに呟くと、作業用コートの右ポケットから、愛用の鍛造スチール製モンキーレンチを滑らかに抜き放った。
そして、刺客たちが引き金に指をかけたコンマ一秒の隙を突き、瓦礫を蹴って斜め前方へと果敢に跳躍した!
「撃てッ! 手足ごと蜂の巣にしろ!」
ドシュッ、ドシュッ!
放たれた二本の太矢が空気を切り裂き、シオンのコートの裾をかすめて背後の瓦礫へと深々と突き刺さる。
だが、シオンの手にした重量級モンキーレンチの先端は、すでに頭上の真鍮バルブの十字ハンドルへと完璧に噛み合っていた。
シオンは自らの全体重と遠心力をレンチの柄へと注ぎ込み、テコの原理を利用して、一気に下方向へと引き倒した!
プシュゥゥゥゥ――ドグォォォォォンッ!!!!
鼓膜を劈くような凄まじい爆縮音とともに、安全弁の開口部から、摂氏三百度を超える高圧の過熱蒸気が、白銀の暴風となって刺客たちの頭上へと吹き荒れた!
「ぐわあああっ!? 熱いッ!」「目が、目がァァァッ!?」
狭い高架下通路が一瞬にして濃密な白い蒸気地獄へと化し、刺客たちは猛烈な熱風と視界喪失に絶叫して後退した。
だが――刺客のリーダー格の男だけは、革鎧の腕で顔を庇いながら、蒸気の切れ間から飛び出そうとするシオンの影を視界に捉えていた。
「小細工をォォォッ! 死ねぇ時計屋!」
男は残された最後の一本のクロスボウを構え、シオンの胸板めがけて引き金を絞り込んだ――!




