第37話:エルネスタの独自捜査~警察内部に潜むもみ消しの圧力~
午前九時三十分。
帝都中心部に威容を誇る帝国警察本庁舎。
赤レンガと花崗岩で築かれた巨大な権力の要塞の地下深く、薄暗い機密資料室の片隅で、エルネスタ・フォン・ヴァレンタイン警視は、埃の積もった古い事件ファイルを猛烈な勢いでめくっていた。
徹夜の捜査と昨夜の冷たい雨の張り込みにより、彼女の白い陶器のような肌には微かな疲労の色が滲み、目の下には薄い隈が浮かんでいた。
だが、軍服のボタンは一つとして乱れることなく留められ、その背筋は氷の槍のように凛と伸びていた。
彼女の左手の指先は、時折、胸元のポケットに収められた冷たい銀の懐中時計――亡き母の形見であり、昨夜シオンが見出した恩師クラウスの刻印が刻まれた時計に、無意識に触れていた。
(あの男は……シオンは、人を殺すような人間ではない)
昨夜、雨の軒下で差し出された、生姜と蜂蜜の効いた温かいスパイスティーの温もり。
ストーブの火の前で、自らの孤独な境遇を静かに受け止め、「あなたは自分の足で歩いている」と告げてくれたあの穏やかな瞳。
エルネスタの並外れた鑑識眼と直感が、シオンの無実を、そしてジュリアン・フォン・バローニの狡猾な罠を告げていた。
しかし、ジュリアンの犯行を裏付ける決定的な物証――現場の大時計の細工を立証する科学的データが、どうしても見つからない。
鑑識課の公式報告書は「時計に外部からの工作痕跡なし、正常稼働」で完全に固定されてしまっていた。
バタン!
地下資料室の重い鉄扉が乱暴に開かれ、荒い足音が響いてきた。
現れたのは、特別捜査局の副局長であり、エルネスタの直属の補佐を務めるギルバート警部だった。
トレンチコートを羽織ったベテラン警部は、周囲の廊下を油断なく見回すと、素早く扉を閉めて閂を下ろした。
「ギルバート警部? ノックくらいしなさい。今、過去のバローニ家の不審死事案を精査しているところです」
「捜査資料を閉じろ、エルネスタ」
ギルバートの低く、押し殺した声に、エルネスタは眉をひそめて顔を上げた。
「……どういう意味ですか?」
「今しがた、警察庁総監室から特別捜査局宛てに、極秘の『特別訓令』が下った」
ギルバートは苦々しい表情で煙草を取り出そうとし、禁煙の部屋であることを思い出して胸ポケットへ押し戻した。
「バローニ侯爵変死事件の捜査本部は、本日午前十時をもって解散。死因は『持病の心臓麻痺による急死、または外部の侵入者による物取りの犯行』として処理される。そして……息子のジュリアン様に対するすべての重要参考人指定を解除し、身辺監視を直ちに撤収せよ、とのことだ」
「な……なんですって!?」
エルネスタは机を両手で叩いて立ち上がった。青い瞳に、信じがたいものを見る激しい憤怒の光が爆発する。
「正気ですか!? 現場の密室には明らかに不自然な熱源の痕跡があり、ジュリアンには動機も偽証の疑いも濃厚です! あの大時計の時間操作のトリックさえ解明できれば、あの男を確実に追い詰められるのですよ! なぜ今、捜査を打ち切るのですか!」
「お前には見えていないのか、お嬢様!」
ギルバートが珍しく声を荒らげ、エルネスタの眼前に身を乗り出した。
「バローニ侯爵邸の地下には、歴代の警察総監や保安局幹部、果ては貴族院の重鎮たちにばら撒かれた莫大な裏金と、人身売買を黙認してきた記録が眠っている! ジュリアンの顧問弁護士が今朝一番で警察庁幹部を脅したのさ。『ジュリアン様をこれ以上拘束するなら、地下金庫の帳簿をすべて帝都日報にリークする』とな!」
「脅迫に屈して、犯罪者を野放しにするというのですか!? それが帝国の警察の正義なのですか!」
「それだけじゃねえ!」
ギルバートは苦悶に顔を歪め、エルネスタの目を真っ直ぐに見据えた。
「このもみ消し命令の背後には……貴族院の筆頭、お前のお父上――ヴァレンタイン公爵閣下の意向も働いている。公爵閣下は、バローニ家との縁談や利権の乱れを嫌い、娘のお前がこの泥沼の事件に深入りすることを『帝国の恥』として激怒されているのだ! これ以上逆らえば、お前は警視のバッジを剥奪され、実家に軟禁されるぞ!」
父ヴァレンタイン公爵の名。
エルネスタの全身から、一瞬にして血の気が引いた。
物心ついた時から、自らを政略結婚の道具としてしか見ず、警察官としての誇りすら「貴族の道楽」と蔑み続けてきた絶対の権力者。
その父の巨大な影が、今また彼女の前に立ちはだかり、正義を押し潰そうとしていた。
「…………」
資料室に、重苦しい沈黙が落ちた。
エルネスタは拳を震わせ、俯いた。銀色の前髪がその表情を隠す。
ギルバートが痛ましそうに息をつき、彼女の肩に手を置こうとした――その瞬間だった。
「……お断りします」
エルネスタが顔を上げた。
その瞳には、恐怖も迷いも微塵もなかった。
氷の結晶のように澄み渡り、燃え盛るような気高さを湛えた、真の法執行官の眼差し。
「真実に目を瞑り、弱者を見殺しにし、腐敗した権力に傅くことが貴族の誇りであるならば……私は今この瞬間、ヴァレンタインの名など喜んで捨て去りましょう!」
「エルネスタ……!」
「私は帝国特別捜査局警視、エルネスタ・フォン・ヴァレンタイン! 法のもとでのみ、私は立ちます! ジュリアン・フォン・バローニの犯罪を……私は絶対に許さない!」
彼女の揺るぎない覚悟を前に、ギルバート警部は大きく目を見張り――やがて、呆れたように、だが誇らしげに口角を持ち上げた。
「……まったく。お前のお母上に、どこまでも瓜二つだな」
ギルバートはコートの内ポケットから、真鍮の重い鍵を取り出すと、資料机の上にカチャリと置いた。
「警察本庁の地下駐車場、一番奥にある非公式の特装蒸気自動車の鍵だ。燃料は満タンにしてある。……俺は今日、一日中この部屋で書類整理をしていた。お前がここへ来たことも、鍵が盗まれたことも、何も知らない」
「ギルバート警部……」
「行け、エルネスタ。そして……あの生意気な時計屋の首根っこを掴んででも、あのアリバイを叩き潰してこい」
「はい!」
エルネスタはリボルバーの装填を確かめ、軍服のコートを翻して地下駐車場へと駆け出した。
正義の弾丸を胸に秘め、彼女は単身、下町へと向かう!




