第36話:消えた孤児たち~侯爵邸地下に眠る人身売買リスト~
酒場『錆びた錨亭』を出たシオンとトビーは、運河沿いのぬかるんだ小道をさらに奥深くへと進んでいた。
霧は依然として重く垂れ込め、石炭の煤で黒ずんだ古い木造長屋が、まるでお互いに寄り添って倒壊を拒んでいるかのように密集している。
軒下には、擦り切れた麻布を被って寒さに震える浮浪者たちや、腹を空かせて虚ろな瞳で泥遊びをする幼い子供たちの姿があった。
帝都の繁栄を支える蒸気機関の熱気と富の光は、この下町の最深部には一筋たりとも届かない。
二人が足を止めたのは、路地の行き止まりに佇む、屋根の半分が崩落した古い石造りの建物――かつてバローニ侯爵の寄付によって運営されていたという、旧聖マルガレーテ孤児院の廃教会だった。
「……ここだよ、親方」
トビーがシオンのコートの裾を握りしめ、掠れた声で囁いた。
「おいらが親方に拾われる前……ルーカスやミーナたちと一緒に暮らしてた場所だ」
軋む鉄柵を押し開け、二人は埃とカビの匂いが立ち込める礼拝堂の中へと足を踏み入れた。
天井の割れたステンドグラスから、寒々しい灰色の朝の光が斜めに差し込んでいる。
祭壇の脇の太い木製の柱には、幼い子供たちがナイフで刻んだ無数の背丈の印が残されていた。
『ルーカス 八歳』『ミーナ 七歳』『トビー 九歳』――。
かつてそこで子供たちが笑い、泥だらけのパンを分け合い、明日への希望を語り合っていた確かな証拠が、埃にまみれて刻まれていた。
祭壇の前の壊れた木製ベンチに、ボロボロの黒い祭服を纏った白髪の老人が、祈るように両手を組んで座り込んでいた。
かつてこの施設で孤児たちの世話をしていたという、元教会の神父ヴィンセントだった。
「ヴィンセント神父様ですね」
シオンが足音を忍ばせて歩み寄ると、老神父はゆっくりと顔を上げた。
その落ち窪んだ両眼の周りには深い隈が刻まれ、シオンの背後に立つトビーの姿を認めた瞬間、老人の枯れ枝のような手が激しく震え出した。
「お前は……トビー……? 生き、ていたのか……神よ、おお、神よ……!」
「神父様! 教えてくれよ! ルーカスは!? ミーナはどこへ行ったの!? 『遠くの優しいお金持ちの家に養子に行く』って言われて馬車に乗せられたあいつらは、今どこにいるんだよ!? 『立派な大人になって、またみんなでパンを食べよう』って約束したのに……手紙の一通も届かないんだ!」
トビーが祭壇へ駆け寄り、老神父の祭服に縋り付いて叫んだ。
老神父は顔を覆い、しゃくりあげるように嗚咽を漏らした。
「すまない……すまない、トビー……! すべて……すべて、私の罪なのだ……!」
老神父の涙ながらの告白は、バローニ侯爵邸の闇をあまりにも生々しく暴き立てるものだった。
五年前、孤児院の運営費に行き詰まっていたヴィンセントのもとに、バローニ侯爵が巨額の寄付金を携えて現れた。
侯爵は「身寄りのない子供たちに教育を受けさせ、立派な家庭へ養子縁組を斡旋する」という甘言を弄し、下町の身寄りのない孤児たちを次々と集めさせた。
だが、それはすべて真っ赤な嘘だった。
黒塗りの馬車で連れ去られた子供たちは、養子先などではなく、侯爵が裏で繋がっていた国外の密輸船、あるいは帝国北方の私設鉱山労働者として、金貨数枚の値札をつけられて売り飛ばされていたのだ。
「最初は……本当に養子に行くのだと信じていたのだ……! だが、二年前、連れ去られたはずのルーカスが、血と泥にまみれてこの教会へ逃げ帰ってきた……! 『地下の鉄の檻に閉じ込められている、助けて、みんなが死んじゃう』と……! だが、すぐに侯爵の手下の暗殺者どもが押し入り、ルーカスを力任せに連れ戻していった……! 私は……警察に駆け込んだのだ! 子供たちが人身売買されていると、必死に訴えたのだ!」
「……警察の対応はどうだったのです?」
シオンの静かな問いに、老神父は絶望の色を濃くして首を横に振った。
「所轄署の警部は私の訴えを一顧だにせず、逆に『名誉あるバローニ侯爵を侮辱する狂言だ』として、私を留置場へ叩き込んだ……! そして翌日、警察の上層部から圧力がかかり、この教会は強制的に閉鎖されたのだ……! 警察は、侯爵から莫大な裏金を受け取り、子供たちの人身売買の記録をすべて握りつぶしていたのだよ……! 帝都の法など、貧民にとってはただの処刑台に過ぎなかったのだ!」
「そんな……そんなのってないよ……!」
トビーは床に崩れ落ち、冷たい石畳を拳で叩いて号泣した。
「ルーカス……ミーナ……おいらだけが逃げ出して……おいらだけが温かいご飯を食べて……! あいつらは今も、あんな冷たい地下で苦しんでるかもしれないのに……! おいら、許せない……あいつらを売った奴らを、絶対に許せないよ……!」
「トビー、自分を責めるな」
シオンは少年の震える肩を抱き寄せ、その背中を力強く叩いた。
シオンの胸の中で、静かに、だが何者にも消し去ることのできない青白い怒りの業火が燃え上がっていた。
バローニ侯爵が犯してきた人道に対する大罪。
そして、その血塗られた犯罪システムと巨万の富をそのまま受け継ぎ、自らの父親すら平然と毒殺して権力を握ろうとするジュリアンの底知れぬ邪悪。
警察上層部が買収されている以上、警察への通常の被害届や告発など、完全に無力だ。書類は闇から闇へと破棄され、シオンやトビーが「狂言者」あるいは「共犯者」として口封じに消されるだけだ。
「ジュリアンを止める道は、ただ一つしかない」
シオンは老神父とトビーを見据え、氷のように研ぎ澄まされた声で言った。
「警察の腐敗幹部すら揉み消すことのできない、貴族院の親族、報道陣、そして民衆の目が集まる公式の場で、あいつの鉄壁のアリバイを粉々に粉砕することだ。物理法則の冷徹な事実を突きつけ、反論の余地を完全に奪う。……奴が父の懐から奪い取った星型鍵を突き出し、地下金庫の『人身売買リスト』を全世界に開示させる」
「親方……おいらも行くよ! あいつを絶対に許さない!」
「ああ。必ず全員の居場所を突き止め、連れ戻す。……行くぞ、トビー」
シオンはトビーの手を固く握りしめ、朝霧の中へと力強く駆け出した。




