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クロックワーク・アリバイ 〜裏社会の天才時計技師、自分が作った「鉄壁の不在証明」を法廷で解体する〜  作者: 六井求真


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第35話:バローニ侯爵の裏の顔~帝都を蝕む違法高利貸し~

午前六時。

 夜明けの鈍色の光が、帝都を包む重苦しい朝霧を青黒く染め上げていた。

 湿り気を帯びた冷たい突風が運河の黒い水面を泡立たせ、水蒸気と石炭の煤煙、そして魚の腐臭が混じり合った独特の重金属臭が、下町の入り組んだ狭い路地に濃密に立ち込めている。

 シオンとトビーが足を踏み入れたのは、帝都下町の外れ、旧運河の船着場に面した裏酒場『錆びた錨亭』だった。

 ここは、帝都の警察組織の手が及ばない闇商人、密輸業者、廃品回収工、そして裏社会の事情通たちが集う、下町の吹き溜まりのような場所だ。

 軋む重い木製の扉を押し開けると、店内には粗悪な安煙草の煙が紫色の靄となって漂い、夜勤明けの荒くれ者たちがカウンターで粗悪な芋蒸留酒のグラスを傾けていた。


「おいおい……こんな早朝から、見慣れねえ上等な顔立ちの優男が入ってきたぜ」

「ありゃ、真鍮小路の偏屈時計屋シオンじゃねえか。こんな掃き溜めに何の用だ?」

 カウンターの奥、薄暗いランプの光の下から、右目に黒い革の眼帯を当てた巨躯の老人が、野太いダミ声で唸った。

 この酒場の店主であり、かつて帝都地下鉄道の主任機関士を務めていた下町の情報通、隻眼のバルドだ。


「おはようございます、バルドさん。朝早くから騒がせて申し訳ありません」

 シオンはカウンターの端へ静かに歩み寄り、銀貨を三枚、乾いた金属音を立てて木製のカウンターに滑らせた。

「熱いブラックコーヒーを二杯。それと……昨夜殺害された、バローニ侯爵についての確かな情報を買いたいのです」


「バローニ侯爵だと?」

 バルドの太い眉がピクリと跳ね上がり、酒場内にいた数人の荒くれ者たちが、ピタリとグラスを置いた。

 ジョッキの触れ合う音すら止まり、店内の空気が一瞬にして凍りつく。

 バルドは銀貨を太い指先で引き寄せると、湯気を立てる泥水のように黒い液体が入った陶器のマグカップを、シオンとトビーの前にドンと無造作に置いた。

「昨夜、貴族街の豪邸の密室で毒殺されたっていう、あの悪名高き大金持ちのことか。……時計屋、お前、まさかあの件に首を突っ込んでるのか? 命がいくつあっても足りねえぞ」


「少し、職人としての落とし前をつけねばならぬ理由がありましてね」

 シオンはコーヒーに口をつけず、真摯で冷徹な眼差しで老人を見据えた。

「帝都の朝刊では、侯爵は帝都の貧民院や孤児院に多額の寄付を行っていた『慈悲深き篤志家』と美談仕立てで報じられています。ですが……下町の人々の反応はまるで違う。侯爵の死を知った誰もが、悲しむどころか、怯え、あるいは憎悪に満ちた目を向けている。バローニ侯爵とは、本当はどんな男だったのです?」


「フン……新聞なんざ、貴族の金でいくらでも嘘を書く御用新聞の紙切れよ」

 バルドは唾を吐き捨てるように言い、カウンターの下から手垢に汚れた古びた帳面を取り出した。

「バローニ侯爵の正体はな、帝都最悪の吸血鬼だ。表向きは慈善家面して下町に金をばら撒いちゃいるが、その実態は、貧民街の零細町工場や日雇い労働者を相手にした、違法な超高利貸しの元締めよ。一度あそこの息のかかった闇金から金を借りたら最後、年利三割、五割と法外な利子で首を絞め上げられ、返せなくなった一家は……全員、夜逃げすら許されずに跡形もなく消えちまうのさ」


「消える……?」

 トビーがカップを握りしめながら、恐怖に身を震わせて呟いた。

「ああ。健康な男は帝都北方の極寒の私設炭鉱へタダ同然で売り飛ばされ、女や子供は……国外の怪しげな組織へ人身売買として流されるのさ。下町の住人にとって、あのバローニの屋敷は『人を喰らう魔窟』として恐れられていたのよ」


 バルドの告発に、シオンの背筋に冷たい戦慄が走った。

 あのジュリアンが「親父は財産を慈善事業に寄付すると言い出した」と語っていたのは、単なる遺産相続の口実などではなかったのだ。

 侯爵は、自らの血塗られた大罪を隠蔽し、死後に天国へ行くための身勝手な免罪符として、下町から搾り取った血の金を偽善の慈善事業へと回そうとしていたに過ぎない。

 そして――息子のジュリアンは、その腐りきった巨万の富と裏の利権を、一滴たりとも手放したくなかったのだ。


「だがな、シオン」

 バルドは声を一段と低く落とし、カウンター越しにシオンの顔へと身を乗り出してきた。

「侯爵が死んでせいせいしたかと思えば、下町の連中は今、前以上の恐怖に震え上がってる。息子のジュリアン坊ちゃんだ。あいつは親父以上の冷酷な守銭奴で、しかも親父と違って『世間体』すら気にしねえ。親父が死んだ今、ジュリアンが侯爵の全利権を握れば、下町の借金の取り立てや人身売買はさらに苛烈を極めるだろうよ」


「ジュリアンが狙っているのは、単なる表の遺産だけではないのですね?」

 シオンが鋭く切り込むと、バルドは眼帯の下の隻眼を細め、獰猛な笑みを浮かべた。

「察しがいいな、時計屋。そうだ。バローニ侯爵邸の広大な地下には、帝都の警察上層部や貴族院議員たちにばら撒いた賄賂の記録、そして下町から売り飛ばした連中の『人身売買リスト』がすべて収められた、特殊合金製の【秘密金庫】があるという噂だ。その金庫の中身を握りさえすれば、帝都の警察や司法組織すら、意のままに脅迫して操ることができる」


「……その金庫を開ける方法は?」

「侯爵が肌身離さず懐に忍ばせていた、真鍮の星型鍵だ。世界にただ一本しかない、複雑怪奇なシリンダー錠の鍵だそうだ。ジュリアンは、親父の息の根を止めて、その鍵を懐から奪い取ったに違いねえ」


 真鍮の星型鍵。

 ジュリアンが昨夜、靴底に地下庭園の赤土をつけてまで確認しに行っていたもの――。

 パズルのピースが、シオンの頭脳の中で劇的な音を立てて噛み合っていくのを感じていた。

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