第34話:シオンの激しい憤怒~職人の矜持を汚された代償~
ジュリアンの革靴の足音が夜霧の彼方へと完全に消え去り、蹴破られた裏口の隙間から、凍てつくような未明の湿った冷気が工房の床を這うように流れ込んできた。
壁一面に掛けられた何百もの古時計たちが、何事もなかったかのように規則的で冷淡な針の音を刻み続けている。
――チク、タク、チク、タク。
かつては世界で最も心地よい調和に聞こえていたその規則正しい秒針の音が、今のシオンにとっては、己の愚かさと罪深さを嘲笑う悪魔の合唱のように鼓膜を抉っていた。
ドッガァァァンッ!!
激しい破壊音が、静寂の工房の空気を破裂させた。
シオンが全身の筋力を込め、右の拳を作業台の分厚い樫の天板へと力任せに叩きつけたのだ。
ガタガタと天板が悲鳴を上げ、整然と並べられていた極小のピンセット、極細のヤスリ、真鍮のキズミ、そして精密ドライバーが激しく宙に跳ね上がって、油で汚れた床板へと散乱した。
シオンの拳の関節は赤黒く擦り切れ、皮膚が裂けて鮮血が滲み出ていたが、彼はその激痛に眉一つ動かさなかった。
両肩を激しく上下させ、荒く浅い呼吸を繰り返すその琥珀色の双眸には、これまでトビーが一度たりとも見たことのない、焔のように激しい激情と、底知れぬ自責の涙がギラギラと揺らめいていた。
「……私の手で」
シオンの喉の奥から、ひび割れたガラスを擦り合わせるような、痛切な呻きが漏れ出た。
「私が……この手で磨き上げてきた技術で、一人の人間を毒殺する片棒を担いでしまった……! 時間を欺き、物理法則を歪め、あのような傲慢な怪物の殺人計画に……完璧な隠れ蓑を与えてしまったのだ……!」
シオンは自らの血の滲む両手を、呪わしそうに見つめた。
数千分の一ミリの金属の狂いを指先の皮膚感覚だけで削り出し、止まったゼンマイに再び命を吹き込むために、泥水をすするような修行に耐えて磨き上げてきた、時計職人の手。
その手が、今や実の父親の首筋に毒針を突き刺すための時間を稼ぎ出した『殺人装置』の製造者として、血塗られているように思えてならなかった。
職人としての矜持。父とも仰いだ恩師クラウス・アルベルトから受け継いだ、「時計は人の命と時を尊ぶためにある」という神聖な誓い。
そのすべてを、ジュリアンの醜悪で身勝手な嘘によって完膚なきまでに踏みにじられ、汚辱の泥水の中へと叩き落とされたのだ。
耐え難い屈辱と激しい自己嫌悪が、冷たい刃となってシオンの心臓を抉り続けていた。
「親方……!」
その時、小さく、だが驚くほど温かい両の手が、シオンの血塗られた右手を下からぎゅっと包み込んだ。
トビーだった。
少年は煤と涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、シオンの作業着の袖を両手で必死に握りしめながら、喉が千切れんばかりに叫んだ。
「親方は悪くない! 親方は絶対に悪くないよ! 親方は、あいつの『愛する女の人を助けたい』って涙の嘘を信じただけじゃないか! 困っている人を助けようとした親方の心が、どうして人殺しの手助けになるんだよ! 悪いのは、親方の優しい気持ちを踏みにじって利用した……あいつだ! あのジュリアンって男が、全部悪いんだ!」
「トビー……」
「おいら、知ってるよ! 三年前、おいらが路地裏のゴミ箱を漁って、凍え死にそうになってた時……誰よりも先に手を差し伸べてくれたのは親方だった! 泥だらけのおいらに温かいシチューを食べさせてくれて、時計のネジの締め方を教えてくれて、生きる居場所をくれた! 親方は世界で一番優しくて、一番立派な時計職人なんだ! あんな悪魔みたいな貴族の言葉に負けて、親方が自分を責めるなんて……おいら、絶対に嫌だ!!」
トビーはシオンの腰にしがみつき、少年の小さな背中を激しく震わせながら、嗚咽を漏らして泣きじゃくった。
トビーの全身から伝わってくる、ひたむきな信頼と温かな体温。
作業台の片隅には、トビーが先ほどストーブの熾火で温め直してくれた、湯気を立てる素朴な麦茶のマグカップが置かれていた。
その香ばしい匂いと少年の純粋な叫びが、冷え切り、自責の闇に沈みかけていたシオンの凍てついた魂を、力強く解きほぐしていった。
「…………ああ。そうだな」
シオンは深く、長く息を吐き出し、空いていた左手をトビーの丸まった頭の上にそっと載せた。
「お前の言う通りだ、トビー。私がここで絶望して膝をつき、自暴自棄になっていては、あいつの思惑通りだ。私が職人としての誇りを汚されたのなら……その汚れは、私の職人としての技術と知恵で濯がねばならない」
シオンの双眸から涙が消え去り、代わりに、絶対零度の氷の刃のような冷徹で研ぎ澄まされた決意の光が宿った。
「あのアリバイを作ったのが私であるならば……この世界で、あのアリバイの虚偽を暴き、完全な論理で解体できる人間もまた、私一人しかいないのだからな」
シオンは作業台の引き出しから、昨日引いたばかりのジュリアンの書斎の大時計の内部設計図を取り出し、机の上に平らに押し広げた。
そして、胸ポケットから青インクの万年筆を引き抜くと、猛烈な速度で図面の余白へ数式と図形を書き殴り始めた。
振り子の周期を決定する物理公式―― \( T = 2\pi\sqrt{L/g} \)。
バイメタル振り子の熱膨張係数 \(\alpha\) と、暖炉の火力が減衰していく際の指数関数的な冷却曲線。
そして、ガンギ車とアンクルの爪石の間に塗布された、極寒地クジラ油の温度依存性による粘性抵抗の変化率――。
「ジュリアンは完璧なアリバイだと信じ込んでいる。だが、自然界の物理法則に、人為的な『絶対の完璧』など存在しない。暖炉の熾火の熱量、室内の空気対流、そして時計油の酸化速度……条件を極限まで精査すれば、必ず五分間の遅延の中に『計算上の微小な狂い』が生じているはずだ。その狂いこそが、奴が父親の首に毒針を刺した犯行時刻を決定づける、動かぬ反証となる」
シオンの怜悧な瞳が青白く冴え渡る。
「トビー、泣いている時間は終わりだ。外套を着なさい。私たちは街へ出るぞ」
「街へ……? どこへ行くの、親方?」
トビーが袖で涙を拭いながら尋ねた。
「ジュリアン・フォン・バローニと、殺されたバローニ侯爵の『裏の顔』を調べ上げる。奴が父親を殺してまで奪い取ろうとしたものの正体を突き止め、あいつの逃げ道を完全に塞ぐんだ」




