第33話:「お前が作ったアリバイだ。バラせばお前も死刑台だ」
深夜の静寂を取り戻した工房に、生き残った柱時計たちの不気味なほど規則的な秒針の音が響き渡っていた。
チク、タク、チク、タク。
かつてシオンが魂を注ぎ、宇宙の運行にも似た美しき秩序として愛したはずの調和の音色が、今はまるで、地獄の裁判の開廷を冷酷に告げる槌音のようにシオンの鼓膜を打ちのめす。
「……私の修理証明書だな」
シオンは視線を突きつけられた紙片から外さず、氷のように乾いた声で呟いた。
「それがどうしたというのです」
「とぼけるなよ、シオン君」
ジュリアンは紙片をひらひらと弄び、芝居がかった大げさな仕草で天井を仰ぎ見た。
「君が昨日の昼、親父の書斎の大時計に施したあの細工……実に、実に見事だったよ! 極寒地クジラ油による摩擦遅延、そして暖炉の熱によるバイメタル振り子の熱膨張! あの大時計は、俺が計算し尽くした通り、昨夜の午後十時ちょうどから、正確に『五分間』遅れて針を進めてくれた」
ジュリアンの瞳に、歪んだ完全犯罪の陶酔と狂気の光が爛々と灯る。
「おかげで俺は、カイル子爵令息と応接間でチェスを指しながら、あいつが席を外したわずか数分の隙を突いて親父の寝室へ忍び込むことができた。あらかじめ仕込んでおいた極細の注射針で、就寝薬入りのワインを飲んでぐっすり眠りこける親父の首筋へ、即効性の青酸性神経毒をひと突き! 親父は悲鳴一つ上げることすらできずに絶命したよ。そして俺は内側から重さ五・二キロの鉄の閂を降ろす細工を施し、何食わぬ顔でチェス盤の前に戻った」
実の父親を惨殺したその血塗られた記憶を、ジュリアンはまるでチェス盤上の鮮やかなチェックメイトでも自慢するかのように、平然と、誇らしげに語ってのけた。
「カイルが戻ってきた時、応接間の時計と親父の書斎の大時計は、一秒の狂いもなく完璧に時間を一致させていた。親父の死亡推定時刻、俺には第三者の証言つきの『完璧な不在証明』が存在したのだ! 警察の鑑識どもも、あの時計が狂っていたことなど夢にも気づいていない。……すべては、君のあの神懸かり的な細工のおかげだよ!」
「…………ッ!」
シオンの拳が、白く骨が浮き出るほど強く握りしめられた。
爪が手のひらの皮膚を食い破り、赤黒い血が滲み出るほどの激痛が走る。
だが、その肉体の痛みなど、シオンの胸の奥底を焼き尽くす激しい憤怒と、底知れぬ悔恨の炎に比べれば、何の意味もなさなかった。
(私は……人を殺すための『凶器』を、この手で作ってしまったのか)
愛する女性を救うため。厳格な父の不条理な束縛から逃れ、二人で新天地へ旅立つため。
ジュリアンが並べ立てたあの痛切で哀れな嘘を信じ、自らの誇りである時計工学の粋を集めて作り出した、あの完璧な五分間の遅延トリック。
それが――一人の人間を毒殺し、法と正義の目を欺くための、血塗られた隠れ蓑として使われたのだ。
シオンの魂そのものである精密な歯車とゼンマイが、他者の命を奪い去るための冷酷な殺人装置へと成り果てていた。
胃の腑の底から熱い汚泥が逆流してくるような、耐え難い吐き気と激しい自己嫌悪がシオンの全身を苛んだ。
「最初から……」
シオンの喉の奥から、低く地を這うような呻きが漏れた。
「最初から、父親を殺害するためのアリバイ作りに、私を利用したのか」
「当たり前だろう!」
ジュリアンは下品な嘲笑を爆発させ、膝を力任せに叩いた。
「誰が下らない浮気の言い訳ごときに、金貨百枚もの大金を払うと思うかね? 親父は狂ったように、バローニ家の全財産を慈善事業に寄付すると言い出していたのだ。あんな老いぼれに、我がバローニ家の巨万の富を奪われてたまるか! だから消した。邪魔者は排除する、それが貴族の掟だ。そして君は、俺の依頼を忠実に果たし、最高の不在証明を提供してくれた。実に優秀な『共犯者』だよ、シオン君」
「私は貴様の共犯などではない!」
シオンの怒声が、工房の四方の壁を激しく震わせた。
普段の物静かで理知的な時計職人の面影を完全にかなぐり捨てた、魂の底からの激情の咆哮。
「私は時計の調整を請け負っただけだ! 貴様の卑劣な殺人計画など、露ほども知らされていなかった!」
「世間がそれを信じるかね?」
ジュリアンは冷酷に口角をつり上げ、手にした羊皮紙の紙片をシオンの鼻先へと突きつけた。
「この証明書を見ろ。ここには君自身の筆跡で、特殊な潤滑油の塗布と振り子の熱補正を行ったと明記されている。もし君が警察に余計な口を利けば、俺はこの証明書を警察に突き出すだけだ。『下町の時計屋シオンに大金を握らせ、父を毒殺するための精密な時間偽装装置を作らせた』と証言してやるのさ」
ジュリアンの瞳に、底知れぬ悪意の闇が渦巻く。
「そうなれば、君はただの職人ではない。計画殺人の共同正犯だ。帝国の刑法において、尊属殺人の共犯は情状酌量なしの絞首刑と決まっている! 君も、あの誇り高きエルネスタ警視の手によって、冷たい鉄格子の中へと引きずり込まれ、死刑台へ送られることになるのだ。……あの女はお前の首に縄をかける時、どんな絶望の顔をするだろうな? 想像するだけで傑作だとは思わないか?」
「お前……人間の皮をかぶった悪魔か……!」
トビーが涙をボロボロとこぼしながら、憎悪を込めてジュリアンを睨みつける。
だがジュリアンはトビーを一瞥すら制し、シオンの耳元へと顔を近づけ、甘ったるい毒のような囁きを吹きかけた。
「おとなしく黙っていれば、誰も不幸にはならない。明日の朝十時、バローニ家の顧問弁護士と親族が集まり、俺は正式に侯爵位と全財産の相続を宣誓する。警察も、アリバイが完璧である以上、俺を逮捕することは絶対にできない。すべてが終われば、俺は帝都でも屈指の大貴族だ。君の店にも、生涯遊んで暮らせるだけの金をさらに弾んでやってもいいぞ?」
ジュリアンは黒いカシミアの外套を翻し、裏口の壊れた扉へと向かってゆっくりと歩き出した。
「賢明な選択をすることだ、シオン君。壊れた時計の針は二度と戻らない。……お前の命も、な」
冷たい哄笑を残し、ジュリアンの黒い影が夜霧の路地へと溶けて消えていった。
残されたのは、荒れ果てた工房と、冷たい夜風――そして、職人の誇りを踏みにじられ、怒りに震えるシオンの孤高の背中だけだった。




