第32話:闇夜の密会~ジュリアンの冷笑と脅迫~
硝化綿と硫黄、そして粗悪な樹脂が燃え尽きた特有の、鼻腔を突き刺すような刺激臭。
白煙が、吹き込む夜風に煽られて渦を巻きながら、壊れた裏窓の隙間から細い路地へとゆっくりと排出されていく。
荒れ果てたクロノス堂の工房は、まさに戦場のような惨状を呈していた。
床一面には、数十年から百年前の精密時計から飛び散った無数の歯車、細いゼンマイの鋼片、粉々に砕けたエナメル文字盤の白い破片が散乱し、トビーがぶちまけた高粘度のスピンドル機械油が、床板の木目に深く染み込みながら、ストーブの微かな熾火の赤を鈍く反射している。
その破壊と混乱のただ中に、まるで劇場の特等席にでも招かれたかのように、カシミアの最高級夜会用外套を羽織った青年が、泥のついた靴で土足のまま踏み込んできていた。
昼間、特別捜査局の応接間や取調室で見せていた「厳格な父の突然の横死に怯え、悲嘆に暮れて青ざめる心優しき名門の御曹司」という仮面は、もはやその顔のどこにも見当たらなかった。
薄い唇を三日月のように歪め、手入れされた金髪を湿った夜風になびかせるその相貌には、他者の人生や命を虫けらのように踏みにじることになんの痛痒も覚えない、醜悪で冷酷な特権階級の選民思想がべったりと張り付いていた。
「……ジュリアン・フォン・バローニ」
シオンは背後にトビーをすっぽりと庇いながら、右手に握りしめた大型真鍮スパナの先端をわずかに下げた。
だが、その指先は工具の握りを万力のように締め付け、全身の筋肉はいつでも地を蹴って相手の間合いへ踏み込める、研ぎ澄まされた極限の緊張状態を保っていた。
「なぜ、貴方がここにいる。バローニ侯爵邸には、特別捜査局の捜査官と所轄署の警官が、昼夜を問わず厳重な監視網を敷いているはずだが」
「監視? ふん、あんな下層民上がりの巡査どものことか?」
ジュリアンは嘲笑混じりに鼻を鳴らし、散乱した木製の時計ケースの破片をつま先で無造作に蹴飛ばした。
パキリと乾いた破壊音が、静まり返った工房に不快に響く。
「世の中の仕組みを知らないのかね、下町の時計屋。裏口で見張っていた警官に金貨を三枚握らせ、『父の死のショックで胸が苦しい。庭の霊廟で祈りを捧げてくる』とでも言えば、あいつらは喜んで目を瞑り、背中を向けて敬礼までしてくれるさ。警察などという組織はね、上から下まで金と利権の糸で操られた、ただの従順な豚小屋だよ。……あのヴァレンタイン家の小娘警視だけは、妙に鼻が利いて鬱陶しいがね」
エルネスタの名が出た瞬間、シオンの琥珀色の瞳の奥に、凍てつくような冷徹な光が走った。
だが、シオンはその感情の揺らぎを表には一切出さず、時計の精密機構をキズミで覗き込む時のように、冷酷な観察眼でジュリアンの全身を走査した。
豪奢な夜会用の外套の下、身につけている上等な牛革の乗馬ブーツ。
その深い踵の段差と土踏まずの溝に、ねっとりとした赤黒い泥土が、乾ききらずに分厚くこびりついている。
(……酸性の赤土だ)
シオンの怜悧な頭脳が、瞬時に帝都の地質データを照合する。
帝都下町の土壌は、石炭殻と泥炭、そして砂利が主だ。貴族街の敷地も、綺麗に舗装された石畳か、手入れされた芝生と白砂で覆われている。
鉄分を極端に多く含み、独特の酸味ある金属臭を放つこのような赤褐色を呈する粘土層が存在するのは――帝都でもただ一箇所、旧帝都運河の暗渠に面した、バローニ侯爵邸の広大な敷地の最深部、立ち入りを禁じられた地下庭園の周辺だけだ。
ジュリアンは警察の監視をすり抜けた後、まっすぐこの工房へ来たのではない。
自邸の地下深く、厳重に封印された何らかの場所に忍び込み、何かを掘り起こすか確認してから、この下町の工房へと足を運んできたのだ。
「先ほど逃げ去った刺客たちは、貴方の手引きか?」
シオンが低く問うと、ジュリアンは心底愉快そうに肩を揺らして吹き出した。
「手引き? まさか! あいつらは親父が裏で飼っていた『影の演出家』の使いっ走りどもだよ。親父の死を知るやいなや、親父の遺産……いや、屋敷の地下に眠る『秘密の帳簿』のありかを嗅ぎ回りに来やがったのさ。親父の残党どもが俺の寝室まで嗅ぎ回ってきたら面倒だと思っていたが、まさか親父の敵を追ってこの時計屋にまで押し入るとはな。まあ、お前が自慢の腕力と知恵で追い払ってくれたおかげで、俺としては余計な始末の手間が省けたというものだ。礼を言うよ、シオン君」
ジュリアンは悪びれる様子もなく、壊れた作業机の端に腰を掛け、上等な鹿革の手袋を指先からゆっくりと引き抜いて弄んだ。
「しかし、心底から驚いたよ。君のような薄汚い下町の時計修理屋が、あれほどの凶暴なプロの暗殺者どもを、スパナ一本と機械油の罠で返り討ちにするとはね。さすがは帝国工科学アカデミーを首席で中退した異端の天才だ。……俺が君をあのアリバイ工作の担当に見込んだ目は、狂っていなかったというわけだ」
「親方を……親方をそんな汚い言葉で呼ぶなッ! 出ていけ、この人殺し野郎!」
シオンの背後から、トビーが煤と涙で濡れた顔を真っ赤にして叫んだ。小さな拳を固く握りしめ、床に落ちていた重い真鍮の振り子棒を拾い上げようと身を乗り出す。
「トビー、下がりなさい」
シオンが低く、だが鋼のような絶対の響きを持つ声で少年を制した。その声に込められた威圧感に、トビーは息を呑んで足を止めた。
「……ジュリアン様。貴方が夜陰に乗じ、危険を冒してまで私の工房に現れた理由は何です。私を始末しに来たのでないなら、要件を簡潔に述べていただきたい」
「話が早くて助かるよ」
ジュリアンは嘲笑を収め、冷酷な獣のような瞳でシオンを見据えた。
そして、胸元の外套の内ポケットから、丁寧に四つ折りにされた一枚の上質な羊皮紙を取り出し、人差し指と中指の間に挟んで、シオンの目の前に突き出した。
それは――昨日、シオンがジュリアンの書斎の大時計を調整した際、納品書としてジュリアンに手渡した【時計修理及び特殊潤滑油塗布証明書】だった。
紙片の最下部には、シオン自らの直筆による流麗なサインと、『クロノス堂』の真鍮の刻印が、黒々としたインクで鮮明に押されていた。
「これに見覚えはあるね?」
ジュリアンは唇の端を吊り上げ、喉の奥からねっとりとした声を響かせた。
「君の命運を握る、世界でたった一枚の紙切れだよ」




