第31話:不穏な足音~深夜のクロノス堂を包む黒い影~
飛び散る無数の鋭利なガラスの破片。
冷たい夜風と共に工房へと吹き込んできたのは、雨上がりの湿気などではなかった。
人を殺めることに特化した者たちだけが放つ――濃密で凍てつくような、血と錆の殺気だった。
「ひっ……!? な、なんだよ一体!?」
二階の屋根裏部屋から、凄まじい破壊音に飛び起きて階段を駆け下りてきたトビーが、破片の散らばる床を見て恐怖に息を呑んだ。
破砕された窓枠の鉄格子を巨大な油圧カッターで切断し、工房の中へと音もなく滑り込んできたのは、全身を漆黒の強化革鎧で包み、黒布で顔の半分を覆った三人の刺客だった。
身のこなしは獣のように俊敏で、足音すら立てない。
その手には、黒染めされた鋭利なコンバットナイフと、鋼鉄の矢を装填した消音器付きの小型クロスボウ。
そして――彼らの首筋の襟元から覗いていたのは、黒い歯車が複雑に噛み合う刺青。
帝都の裏社会で暗殺と証拠隠滅を請け負う秘密結社『影の演出家』の処刑部隊の紋章だった。
「トビー、伏せろ!」
シオンは叫ぶが早いか、トビーの細い手首を掴んで強引に引き寄せ、分厚い樫の木の作業台の頑丈な引き出しの奥へと無理やりに押し込んだ。
「絶対にそこから出るな! 息を殺して耳を塞いでいなさい!」
「おい、いたぞ! 時計屋シオンだ!」
先頭の刺客が低く濁った声で唸り、クロスボウの切っ先をシオンの眉間へと向けた。
「金庫と帳簿を漁れ! 大時計の工作図面と顧客記録をすべて焼き捨てろ! ……そして、余計なことを喋る時計屋の息の根を止めろ!」
バシュッ!
放たれた鋼鉄の矢が、空気を切り裂いてシオンの左耳のすぐ横をかすめ、背後の大型柱時計の文字盤を粉々に打ち砕いた。
だが、シオンは悲鳴を上げるどころか、冷徹極まる思考で瞬時に工房の状況を俯瞰していた。
(狙いは私の命だけではない……帳簿と大時計の細工記録の完全な抹消だ。ジュリアンが、警察の目を盗んで裏組織の掃除屋を差し向けてきたのか……!?)
シオンは作業台の真鍮ランプのガラスホヤに素早く息を吹きかけ、青白いガス灯の炎を一瞬で消し去った。
ストーブの熾火のわずかな赤みを除き、工房は一瞬にして、完全なる暗黒の闇に包まれた。
「チッ、明かりを消しやがった!」「動くな、どこにいる!?」
刺客たちが暗視に目を凝らしながら、互いに背中を合わせて刃を構える。
だが――暗殺者たちは決定的な過ちを犯していた。
この何百もの古時計が四方の壁で時を刻む『クロノス堂』の空間において、視界の暗闇など、シオンにとって何のハンデにもならないということを。
――チク、タク、チク、タク。
壁から、床から、天井から跳ね返る時計たちの金属音。
シオンの並外れた鋭敏な聴覚は、音の反響のわずかな遮断と歪みから、刺客たちの荒い呼吸音、革鎧が擦れ合う微細な摩擦音、そして石畳の泥を踏む靴底の沈み込みを完璧に捉えていた。
暗闇の中で、三人の男の三次元座標が、シオンの頭脳の中に鮮明な立体図面として浮かび上がっていた。
「……そこだ」
シオンは工具箱から、重さ五キロを超える大型の真鍮製スパナを手に取ると、闇の中、左側の壁に掛けられていたもっとも巨大な柱時計の振り子――重厚な青銅製のシリンダーオモリを金具ごと力任せに引き抜いた。
そして、暗闇を薙ぎ払うように、遠心力を込めて全力で旋回させて投げつけた!
ドゴォォォンッ!!
「ぐぎゃあああっ!?」
五キロの青銅の金属塊が、先頭の刺客の右肩と鳩尾を同時に粉砕した。骨の軋む鈍い音と共に、大男の巨躯が木の葉のように吹き飛び、壁の棚をなぎ倒しながら床へと昏倒した。
「野郎、どこから投げやがった!?」「死ねえっ、クソ時計屋!」
残る二人がナイフを逆手に構え、シオンの気配めがけて床を蹴って飛びかかってくる。
――その瞬間だった!
「親方に手を出すなーーーっ!!」
作業台の隙間から猛烈な勢いで飛び出したトビーが、床磨き用の滑りやすい高粘度スピンドル油の大型缶を、突進してくる刺客たちの足元の板間へと力任せにぶちまけた!
「うわっ!?」「しまっ――」
粘着油の上で刺客たちの靴底がツルリと激しく滑り、二人は派手に手足を宙に泳がせて背中から床へと叩きつけられた。
シオンはその一瞬の隙を決して見逃さなかった。
大股で踏み込み、手にした大型スパナを容赦なく振り下ろして、起き上がろうとした一人の手首を強打。ナイフを床の隅へと叩き落とし、顎先を蹴り上げて意識を刈り取る。
だが――最後の刺客が、倒れ込みながら懐から黒い小型の陶器球を取り出し、床へと叩きつけた!
ボフゥッッッ!!
激しい閃光と共に、息を詰まらせるような濃密な白煙が工房一面に充満した。刺激性の催涙煙幕!
「ゲホッ、ゲホッ……!」「トビー、目を瞑れ! 口を濡れた布で塞げ!」
シオンはトビーを抱き寄せ、水入れの布を少年の口元に押し当てて庇った。
煙幕の奥で、刺客たちの慌ただしい足音が裏口の割れた窓から逃げ去っていく気配。
やがて、冷たい夜風が吹き込み、白煙がゆっくりと路地へと排出されていく。
荒らされた工房。床に散乱した何百もの微小な歯車とネジ、砕けたガラス、そして飛び散った機械油。
トビーは涙と煤で顔を真っ黒に汚しながら、シオンの作業着の裾を両手で固く握りしめて震えていた。
「親方……親方、怪我はない……? おいら、怖かったよ……!」
「ああ、無事だ。トビー、よくやったな。お前の油のおかげで命拾いしたよ。本当に勇敢だった」
シオンはトビーを抱きしめ、優しくその頭を撫でて安堵の息をついた。
――だが。
その安堵の瞬間を、冷酷に踏みにじるように。
裏口の壊れた窓枠の向こう、夜霧に濡れた路地の闇の中から――ゆっくりと、皮肉に満ちた拍手の音が響いてきた。
パチ、パチ、パチ、パチ――。
「いやあ、実に見事な立ち回りだ。ただのしがない時計修理屋にしておくには、あまりにも惜しい腕前だな……シオン君」
煙の晴れた裏口の敷居を、優雅に跨いで姿を現したのは。
濡れたカシミアの黒い外套を羽織り、胸元に銀の鎖を揺らしながら、口元に醜悪な冷笑を浮かべた男――。
バローニ侯爵邸の跡取り、ジュリアン・フォン・バローニその人だった。




