第30話:シオンの誓い~「自分の技術で人を殺させはしない」~
午後十一時十五分。
下町『真鍮小路』を叩きつけていた冷たい秋雨は、いつしか小雨へと変わり、濡れた黒い石畳から立ち上る灰色の夜霧が、狭い路地裏を幻想的な煙のように包み込んでいた。
軒先から落ちる水滴が、ポツリ、ポツリと一定の拍子で水たまりを叩いている。
薪ストーブの中で燃え盛っていたナラの薪は、赤々と輝く熾火へと変わり、工房の室温は心地よいぬくもりで満たされていた。壁一面の古時計たちが刻む規則正しい秒の足音だけが、まるで静かな教会の祈りのように清らかに響き渡っている。
ストーブの熱で湿り気を飛ばした黒革の軍服コートを、エルネスタは静かに羽織り直した。
白く細い指先で、真鍮のダブルボタンを襟元まで一分の狂いもなく几帳面に留め、銀色の飾緒を左胸へと端正に整える。
再び身に纏った『氷の令嬢』の甲冑。
だが――その澄み切った碧眼の奥には、先ほどまでのような他人を刺す絶対零度の冷気は、もはや微塵もなかった。一度溶け出した氷の奥から覗いていたのは、信じるべき味方を見出した者の、静かで強い光だった。
「長居しすぎたわね。……温かいハーブティー、本当にごちそうさま。冷え切っていた身体が、嘘のように生き返ったわ」
エルネスタは軍靴を鳴らし、工房の出入口の前へと歩み寄ると、真鍮のドアノブに手をかけた。
そして、振り返ることなく、静かに、だが特別捜査官としての厳格な口調で告げた。
「ですがシオン、客観的な状況は何一つ好転していないわ。明朝午前十時……あと十時間足らずで、ジュリアン・フォン・バローニは警察の監視から完全に解放される。彼が莫大な遺産を相続し、父親を殺害した完全犯罪者として帝都の社交界に君臨するのを防ぐ手立ては、現在の警察には存在しないのよ」
「ええ、重々承知していますよ」
シオンは作業台の前に立ち、白手袋を外しながら、静かに彼女の凛とした細い背中を見つめた。
「エルネスタ」
シオンが呼んだ。
『警視殿』という公的な階級でもなく、『お嬢様』という皮肉混じりの尊称でもない。
一人の人間として、魂を分かち合った対等な存在としての、彼女のファーストネーム。
エルネスタの背中が、微かにピクリと震えた。
だが――彼女は振り返りもせず、怒るでもなく、その親しげな呼び捨てを静かに受け入れていた。
「もし……もしも私が、あいつが組み上げた『鉄壁のアリバイ』を、万人の目の前で完全に粉砕してみせたら……あなたはどうしますか?」
深い静寂が、深夜の工房を支配した。
雨の雫が軒先を叩く微かな音。
エルネスタはゆっくりと、半身を翻してシオンを振り返った。
月光のように透き通った白銀の髪がさらりと肩から滑り落ち、ストーブの残光に照らされたその美貌に、迷いのない強烈な正義の炎が宿っていた。
「その時は――私が全力であなたを守るわ」
淀みのない、凛とした美声が、工房の空気を震わせた。
「あなたがどんな工作に巻き込まれていようと、たとえ警察上層部の腐敗官僚どもや貴族院、そして私の実父であるヴァレンタイン公爵があなたを共犯者として罪に問おうと……特別捜査局第一機動捜査班長エルネスタ・フォン・ヴァレンタインの全名誉と誇りにかけて、あなたを法と真実の名の下に護り抜いて見せる。……真実を白日の下に晒そうとする誠実な者を、私は絶対に犠牲にはしない」
それは、国家権力の頂点に君臨する名門公爵家の令嬢が、下町の煤けた修理屋に対して捧げた、生涯唯一無二の命懸けの誓約だった。
シオンは琥珀色の瞳を見張り、そして――ふっと、心の底から満足そうに、柔らかく微笑んだ。
「最高に心強いお言葉ですね。……ならば、明日の朝十時、バローニ侯爵邸でお会いしましょう。あいつが勝ち誇って遺産を相続し、完全犯罪の勝利を宣言しようとする、まさにその瞬間に……私がその偽りの時間を、完璧に解体して差し上げます」
「ええ。期待しているわ、シオン。……絶対に遅刻しないでちょうだいね」
エルネスタは唇の端に、微かな、だが確かな信頼の笑みを浮かべた。
カランコロン。
真鍮のドアベルが澄んだ余韻を残し、彼女は雨上がりの夜霧の中へと静かに歩み去っていった。
石畳を踏み鳴らす、等間隔の凛とした軍靴の足音。その足音が完全に闇の中へと溶けて消えるまで、シオンは静かに耳を澄ませていた。
やがて、シオンは工房の扉をしっかりと施錠し、閂を下ろして作業台へと戻った。
青いスエードの作業マットの上には、エルネスタから託された、止まったままの銀の星辰懐中時計『クロノス・ヴァルキリー』が、ストーブの残り火を浴びて静かに横たわっている。
シオンは右目に真鍮製キズミを装着し、恩師クラウスが十年前のあの日、この時計の心臓部に仕掛けた『秘密の封印』を解くべく、極細のピンセットを握り直した。
――だが、その時だった。
ガシャアァァァンッッッ!!!
耳を劈く凄まじい炸裂音と共に、工房の奥――薄暗い路地に面した裏口の厚い格子窓ガラスが、内側へと激しく粉々に砕け散った!




