第29話:壊れた懐中時計~エルネスタが握りしめる亡き母の形見~
エルネスタが掌の上に掲げたのは、手のひらにすっぽりと収まるサイズの、美しい銀無垢の懐中時計だった。
外装のハンターケースには、純銀の極細線を幾重にも編み込んだフィリグリー(金銀線細工)が施され、夜空に煌めく星座と『氷の百合』の紋章が、溜息の出るような立体彫刻で浮かび上がっている。
長年の使用によってケースの角は滑らかに摩耗し、エルネスタが母の死後、十年間肌身離さず握りしめ続けてきた年月の重みを物語っていた。
「見せていただきましょう」
シオンは白手袋をはめ、両手で恭しくその懐中時計を受け取った。
指先に伝わる、上質な銀のずっしりとした重量感。
リューズの頭部にある小さな真鍮のボタンを、親指の腹でカチリと押し込む。
スプリングの力で、銀の前面カバーが音もなく跳ね上がった。
現れたのは、乳白色の琺瑯文字盤。
青焼きされたブレゲ針が三本、優美な曲線を描いている。
だが――その長針も短針も、そして繊細な秒針も、死んだようにピタリと静止していた。
文字盤が指し示している時刻は、【午後十時十分】。
「十年前、母が息を引き取ったその瞬間に、この時計は止まったわ」
エルネスタは悲しげに瞳を伏せた。
「母が亡くなった後、私は帝都中の一流と呼ばれる時計師たちにこの時計を見せたわ。けれど……誰もが裏蓋を開けた途端に顔色を変え、『内部の機構が複雑怪奇すぎて、触ることすらできない』『下手に手を出せば完全に壊れてしまう』と、口を揃えて修理を断ったのよ。……この時計は、もう二度と動かない死んだ時計なのだと、ずっと諦めていたわ」
「……」
シオンは無言のまま、作業台の真鍮ランプの光を強くした。
右目に愛用の真鍮製キズミを装着し、専用の極薄のステンレス製ケースオープナーを取り出す。
裏蓋のわずか零点二ミリの隙間にオープナーの刃先を滑り込ませ、手首をわずかに捻る。
パチン、と乾いた金属音が響き、内側の防塵用ダストカバーが静かに開かれた。
――その瞬間だった。
「……っ!!」
シオンの全身が、激しい落雷に打たれたかのように硬直した。
キズミの奥の瞳が、限界まで見開かれる。
呼吸が止まり、心臓が肋骨を突き破らんばかりにドクンと跳ね上がった。
そこに広がっていたのは――時計工学の常識を遥かに超越した、神の小宇宙だった。
直径わずか四センチの円形空間の中に、三層に立体交差して組み込まれた数百の極微歯車。
そして――中央で重力の影響を打ち消すために設計された、息を呑むほどに美しい【三軸立体トゥールビヨン(球体脱進機)】。
地板には、鏡面のように磨き上げられたペルラージュ模様と、コート・ド・ジュネーブの流麗な波紋。
だが、シオンの視線を釘付けにしたのは、その超絶技巧の美しさだけではなかった。
ムーブメントの最も奥深く、主ゼンマイを収める香箱の真鍮の表面に。
肉眼では判別不能な、顕微鏡でしか見えないほどのミクロの筆致で、一つの刻印が刻まれていたのだ。
――【二重の砂時計と、咲き誇る白百合】のシンボルマーク。
そして、その下に刻まれたラテン語の銘文。
『*Tempus Neminem Manet - Claus von Allster*(時は何者をも待たず――クラウス・フォン・アルスター)』。
「(クラウス……先生……!?)」
シオンの喉の奥から、声にならない戦慄が込み上げた。
間違いない。
十年前、帝都大時計塔の業火の中で無残に暗殺された、シオンの最愛の恩師。
帝国工科学アカデミーの頂点に君臨した伝説の宮廷時計師、クラウス・フォン・アルスター。
彼が生涯に遺した作品の中で、最高傑作と謳われながら、十年前の大火災と同時に設計図ごと消失したとされていた幻の特注時計――【機械式星辰懐中時計『クロノス・ヴァルキリー』】。
なぜ、恩師の最高傑作が、エルネスタの母の形見としてここにあるのか?
十年前、母を亡くしたエルネスタと、師を亡くしたシオン。
二人の過去と運命は、偶然などではなく――十年前のあの忌まわしい大時計塔の惨劇において、すでに一本の必然の糸で結ばれていたのだ。
「……シオン? どうしたの? 顔色が真っ青よ……」
シオンのただならぬ気迫に、エルネスタが心配そうに身を乗り出してきた。
シオンは奥歯を強く噛み締め、激しく波立つ感情を鋼の意志でねじ伏せた。
今ここで恩師の名を出せば、エルネスタをさらなる混乱と危険に巻き込むことになる。十年前の真相を暴くのは、まず目の前のバローニ侯爵邸の密室殺人を解体してからだ。
「……いえ。素晴らしい機械に見惚れていただけです」
シオンは平静を装い、ピンセットの先で脱進機の微細なパーツをそっと検分した。
「エルネスタ警視。帝都の時計師たちがこれを直せなかった理由が分かりましたよ。この時計は……どこも壊れてなどいません」
「壊れていない……? 現に動いていないじゃないの!」
「ええ。壊れたのではなく――【意図的に封印されている】のです」
シオンの言葉に、エルネスタは息を呑んだ。
「封印……?」
「この脱進機のアンカーの爪の奥に、極小の特殊なクラッチ機構が組み込まれています。一定の暗号――リューズを特定のパターンで回転させない限り、ゼンマイのトルクが輪列に伝わらないよう、最初から設計者が『秘密の鍵』をかけているのです。並の職人が無理に油を差したり針を回そうとすれば、自動的に安全装置が作動して機構をロックする仕組みです」
「母が……時計に鍵をかけたというの……? 一体、何のために……」
「それは分かりません。ですが……お母上は、この時計の心臓部を、悪意ある何者かの手から守ろうとしたのでしょう」
シオンはキズミを直し、作業台の引き出しから、自作の特殊な極細ピンセットと調整ドライバーを取り出した。
その瞳には、恩師の魂と対話する職人の、絶対の確信が燃え上がっていた。
「エルネスタ警視。約束しましょう。明日の朝十時までに……私がこの封印を解き、お母上の形見の時計を、十年前のあの日と同じように動かして見せます。……そして、この時計が再び時を刻み始めた時、ジュリアンの鉄壁のアリバイは完全に崩壊します」
シオンの力強い宣言に、エルネスタは胸に手を当て、深く、信じるように頷いた。
二人の運命の歯車が、十年間の静寂を破り、今まさに力強く噛み合おうとしていた。




