第28話:エルネスタの胸の奥~厳格すぎる父との軋轢~
パチッ、と薪ストーブの薪が静かに爆ぜ、橙色の火の粉がガラス窓の内側で舞い散った。
外の冷たい雨音は依然として降り続いていたが、二人の間に流れる空気は、先ほどまでの刺すような緊張感から、静謐で温かな親密さへと変わっていた。
エルネスタは空になったマグカップを両手で包み直すと、ストーブの炎を見つめたまま、ポツリと呟いた。
「……私の父は、冷酷な人よ」
その声は、捜査官としての凛とした響きを削ぎ落とし、心の奥底の傷口をそっと晒すような、掠れた響きを帯びていた。
「帝国筆頭公爵、ヴァレンタイン家現当主。帝国軍および警察庁の最高顧問……それが私の父、アルブレヒト・フォン・ヴァレンタイン公爵よ。社交界では威厳ある大貴族と持て囃されているけれど、私にとっては……一度も温もりを感じたことのない、巨大な氷の彫像のような存在だったわ」
シオンは口を挟まず、静かに耳を傾けた。
「父の辞書には『家族』という言葉は存在しない。あるのは『利用価値』だけよ。父にとって、娘である私は……より強大な権力や領地を手に入れるための『政略結婚の駒』以外の何物でもなかった。『女に学問も知性も不要だ。高価なドレスを着て微笑み、身分相応の有力貴族に嫁いで家門を太らせろ』……物心ついた頃から、耳にタコができるほどそう言い聞かされて育ったわ」
エルネスタの細い指先が、カップの陶器をきつく握り締める。爪が白くなるほどの力。
「母だけが、私の味方だった。母は病弱だったけれど、私が父の目を盗んで書斎の本を読み漁るのを、いつも優しく見守ってくれた。『エルネスタ、あなたは聡明な子よ。誰かの敷いたレールに魂を売り渡してはいけない。自分の頭で考え、自分が正しいと信じる道を歩みなさい』……母はいつも、そう言って私の頭を撫でてくれたわ」
エルネスタの碧眼に、遠い日を追憶する淡い哀愁が宿る。
「だが十年前……私が十一歳の時、母は原因不明の急病で亡くなった。母が息を引き取ったその翌日、父は私の部屋に入ってきて、母の残した本をすべて庭で焼き捨てたのよ。『これで余計な妄想を抱く者はいなくなった。来月には、隣国の伯爵家との婚約を結ぶ』と、眉一つ動かさずに言い放ってね」
エルネスタは自嘲気味に口元を歪めた。
だが、その瞳の奥には、消えることのない激しい反逆の火花が宿っていた。
「私は逃げ出したわ。母の遺言を胸に抱き、父の敷いたレールを粉々に打ち砕くために。社交界の婚約話をすべて叩き壊し、独学で帝立警察大学校を受験した。歴代最高得点で首席合格した日、父は激怒して私を勘当すると脅したけれど……私は笑ってやったわ。『私は公爵家の娘としてではなく、エルネスタという一個の人間として生きる』とね」
エルネスタはふっと顔を上げ、自らの細い両手を見つめた。
「けれど……警察という組織もまた、冷酷な男社会だった。入庁した当初、周囲の男たちは私を『公爵家の世間知らずのお嬢ちゃん』『すぐに泣いて逃げ出すお飾り』と陰口を叩き、誰もまともに命令を聞こうとしなかった。……悔しかったわ。死ぬほど悔しかった。だから私は、感情をすべて凍りつかせた。『氷の令嬢』の仮面を被り、誰よりも冷酷に、誰よりも完璧に証拠と論理だけで事件を解決し続けてきたのよ。一歩でも弱みを見せれば、父の元へ連れ戻され、政略結婚の檻に閉じ込められる……その恐怖と戦いながら」
語り終えたエルネスタの肩が、微かに震えていた。
常に完璧で、冷徹で、感情を交えぬエリート女性警視。
その氷の鎧の下に隠されていたのは、誰にも甘えることを許されず、孤独の中でたった一人、自らの尊厳を守るために戦い続けてきた傷だらけの少女の魂だった。
工房の中に、深い沈黙が降りた。
壁の時計たちが、規則正しい優しい音でチクタクと秒を刻んでいる。
シオンは静かに立ち上がると、ストーブの前に歩み寄り、エルネスタの前に膝をついて視線を合わせた。
そして、静かに、澄み切った声で告げた。
「あなたは……誰よりも美しく、誰よりも強い人だ」
「……え?」
エルネスタが小さく息を呑んだ。
「親の敷いたレールを外れ、自らの足で歩むこと。それは時計で言えば、安全なゼンマイの巻き上げを拒み、自らの力で歯車を回し始めるようなものだ。激しい摩擦熱を生み、時には歯が欠けるほどの痛みを伴う。……だがエルネスタ警視、あなたは誰の操り人形でもない。自分の意志の針で、自分だけの正しき時を刻んでいる。……その誇り高き歩みを、私は心から尊敬します」
「シオン……」
エルネスタの碧眼が、大きく見開かれた。
胸の奥が、熱い奔流に突き動かされたように激しく震える。
父からも、警察の同僚たちからも、誰からも向けられたことのなかった――ありのままの彼女の生き方を全肯定する、温かく真っ直ぐな言葉。
凍てついていた心の氷壁が音を立てて崩れ去り、彼女の長い睫毛の端に、キラリと一粒の涙の雫が滲んだ。
エルネスタは慌てて指先で涙を拭い、照れ隠しに小さく咳払いをした。
そして、自らの軍服の左胸ポケットへと手を伸ばした。
銀色の細い鎖を手繰り寄せ、掌の上へと、一つの古い懐中時計を静かに取り出した。
「……見てくれるかしら、シオン。母が死ぬ間際、私の小さな手に握らせてくれた……世界でたった一つの形見よ」




