第27話:二人の問答~「法とは何か、時計とは何か」~
「法、ですか」
シオンは低く呟き、壁一面で整然と時を刻み続ける無数の古時計たちへと、琥珀色の視線を向けた。
「エルネスタ警視。あなたにとって、法とは一体何なのです?」
「法とは、社会の秩序であり、弱者を理不尽な暴力から守るための絶対の防壁よ」
エルネスタはカップを置き、背筋を真っ直ぐに伸ばして、迷いのない澄んだ碧眼でシオンを見据えた。
「もし法が機能しなければ、この世界は力を持つ者が力なき者を力づくで踏みにじる、果てしない弱肉強食の地獄になるわ。どんなに理不尽な動機があろうと、相手がどれほど憎むべき悪人であろうと……人間が私刑によって他人の命を奪うことを、法は絶対に許してはならない。もし私刑が正当化されれば、社会の歯車は狂い、文明の秩序は根底から崩壊する。だからこそ私は、法を犯した者を一人残らず法の法廷へと引きずり出し、正しき裁きを受けさせねばならないのよ」
研ぎ澄まされた正義論。
帝国警察のエリートとして、国家の法秩序を背負って立つ者に相応しい、一点の曇りもない完璧な信念の吐露だった。
だが――シオンは静かに首を横に振った。その瞳には、彼女の純粋さを哀れむような、深い哀惜の念が漂っていた。
「美しい理想ですね。……ですが警視殿、その『絶対の法』は、現実の世界で弱者を本当に守ってきましたか?」
「……何が言いたいの一体?」
「バローニ侯爵ですよ」
シオンの声が、冷たく工房に響いた。
「あの男が過去三十年間に帝都で犯してきた数々の悪行を、あなたもご存知のはずだ。下町の零細工場を違法な高利貸しで追い詰めて乗っ取り、借金のカタに貧民街の幼い少女たちを国外の売春組織へ売り飛ばし、自らの不正を暴こうとした誠実な商人たちを『不慮の事故』に見せかけて闇に葬ってきた。……下町の誰もがその血塗られた事実を知り、憎悪に震えていながら、警察は一度でもあの男を逮捕しましたか? 法は一度でも、バローニ侯爵に人生を破壊された人々の涙を拭ったことがありましたか?」
「……っ」
エルネスタの呼吸が詰まった。
シオンの言葉は、彼女が所属する警察組織の、もっとも暗く濁った恥部を容赦なく抉り出していた。
「法は万人に平等だとあなたはおっしゃる。だが現実はどうだ。貴族の莫大な金塊と政治献金によって、警察上層部は飼い慣らされ、検察は不起訴を連発し、裁判官は法廷で居眠りをする。……現に今夜もそうでしょう。局長のボールドウィン卿は、バローニ家からの金箔の封筒を受け取り、あなたに捜査の打ち切りを命じたのではないですか?」
「それは……!」
エルネスタは反論しようと口を開きかけたが、言葉が喉の奥で凍りついた。
事実だったからだ。
局長室の引き出しの奥で見た、あの忌まわしい献金の封筒。保身と利権に塗れた警察の暗黒面を、誰よりも憎み、誰よりも悔しがっていたのは、他ならぬエルネスタ自身だった。
「法とは……所詮、力を持つ人間が自らの都合に合わせて作り上げた、不完全で脆弱な規則にすぎません」
シオンは静かに立ち上がり、壁に掛けられたもっとも古い大型の振り子時計の前へと歩み寄った。
面取りされたガラス扉の奥で、真鍮の振り子が、厳かに左右へと揺れている。
「ですが、時計は違います。……時間は、神がこの世界に与えた唯一の絶対的な平等です」
シオンの長い指先が、ガラス扉の木枠を愛おしそうになぞった。
「大富豪のアントニオ侯爵にも、路地裏の泥水で飢えに震える浮浪児にも、一日はまったく同じ二十四時間であり、一秒は寸分の狂いもなく同じ一秒として流れる。どんなに金塊を積み上げようと、どれほど強大な軍事権力を振りかざそうと、人間は時間の歩みを一秒たりとも買い取ることはできない。……時計職人とは、その神聖で侵すべからざる平等の秩序を守り、人々に正しき時を告げるための使徒なのです」
シオンはゆっくりと振り返り、エルネスタの目を真っ直ぐに見つめた。
その瞳の奥に宿る、職人としての崇高な誇りと、青い炎のような激しい義憤の光。
「だからこそ……私はジュリアンを許せないのです」
「……え?」
エルネスタが小さく息を呑んだ。
「あいつは、実の父親を毒殺するための道具として……私の神聖な時計工学を利用した。私の誇り高き技術を親殺しの凶器に仕立て上げ、時間の平等を汚し、完全犯罪の隠れ蓑にしたのです。……私が人を殺すための偽装に加担したですって? ふざけるな。私は時計職人だ。自分の手で組み上げた機械を、他人の命を奪うための汚らわしい道具にされることほど、耐え難い侮辱はない!」
シオンの全身から立ち上る、圧倒的なまでの魂の叫び。
冷徹なポーカーフェイスの裏側に隠されていたのは、金のための共謀などではなく――己の魂である時計工学を汚されたことへの、天地を揺るがすほどの激しい義憤だったのだ。
エルネスタの全身を、電撃のような戦慄が駆け抜けた。
これまで彼女の頭脳の中で噛み合わなかったパズルのピースが、すべて音を立てて正しい位置へと収まっていく。
「(……そうだったのね)」
エルネスタの碧眼が、激しく震えた。
シオンはジュリアンの共犯者などではなかった。
彼自身もまた、ジュリアンの狡猾な嘘に騙され、自らの至高の技術を奪われた――もう一人の、深く傷ついた『被害者』だったのだ。
「シオン……あなた、最初からジュリアンの完全犯罪を暴くつもりだったのね?」
「ええ」
シオンは静かに頷き、ストーブの前の椅子へと戻ってきた。
「あいつが私の時計を使って作り上げた嘘は……世界で私だけが、一分一秒の狂いもなく論理的に解体できる。警察の腐敗した法では裁けなくとも、物理と時計の論理によって、あいつの鉄壁のアリバイを粉々に打ち砕いてみせます」
二人の視線が、再び真正面から交錯した。
そこにはもう、対立する容疑者と捜査官の冷たい壁はどこにもなかった。
冷酷な真犯人を法の裁きへと引きずり下ろすための、二つの卓越した頭脳――運命のバディが、今まさに魂を分かち合った瞬間だった。




