第26話:差し出された温かい紅茶~「風邪を引きますよ、警視殿」~
「私の……母の形見を直す……?」
エルネスタの喉から、掠れた呟きが漏れた。
秋の冷たい夜雨が、黒傘の縁からパラパラと小さな飛沫を上げて石畳へと落ちていく。
夜霧に煙る下町『真鍮小路』の路地裏。至近距離で見つめ合うシオンの琥珀色の瞳には、一切の打算も嘲弄もなく、ただ研ぎ澄まされた職人の静かな矜持と、彼女の凍えた身を心から案じる温かな光が湛えられていた。
「ええ。ですがその前に、外で立ち話をしていては本当に肺炎を起こしてしまいますよ、頑固な警視殿」
シオンは苦笑し、エルネスタの細い肩をそっと促すように、クロノス堂の工房の木製扉へと手を向けた。
「中へお入りなさい。トビーは二階の屋根裏部屋で泥のように眠っていますし、私の工房にはあなたを拘束する檻も手枷もありません。……雨宿りをして暖を取るだけなら、特別捜査局の厳格な職務規定にも違反しないでしょう?」
エルネスタは泥水で重くなった軍服コートの裾を見下ろし、小さく、白いため息をついた。
拒絶する気力など、すでに体内に残っていなかった。寒さで感覚を失った膝が、微かに震えている。
冷え切った軍靴を引きずるようにして、彼女はシオンの後に続いて『クロノス堂』の敷居を跨いだ。
カランコロン。
扉が閉ざされた瞬間、外の冷たい雨音は厚い木壁の向こうへと遠のき、工房の中を満たす規則正しい古時計たちのチクタク音と、薪ストーブの暖かな気配が二人を包み込んだ。
工房の奥、黒々とした鋳鉄製の薪ストーブの中では、よく乾燥したナラの薪がパチパチと爆ぜながら、橙色の炎を赤々と揺らめかせている。冷え切った空気の中に広がる、燃える薪の香ばしい匂いと、微かな機械油の香り。
「コートをお脱ぎなさい。濡れたままでいては、熱を奪われる一方です。ストーブの傍で乾かしておきましょう」
シオンはエルネスタの肩から、雨露でずっしりと重くなった黒革の軍服コートを丁寧に脱がせ、ストーブの脇の木製ハンガーへと掛けた。
重厚な軍服コートを脱いだエルネスタは、純白のワイシャツに黒い絹タイ、そして細身のスラックス姿だった。
普段、部下たちを震え上がらせている威圧的な軍服コートを脱いだ彼女は、驚くほど華奢で、どこか儚げな一人の美しい少女の輪郭を露わにしていた。肩幅は狭く、ウエストは細く引き締まり、濡れて首筋に張り付いた白銀の髪が、暖炉の火照りを浴びて淡い金色に透き通っている。
「そこの長椅子にお掛けなさい」
ストーブの真正面に置かれた、擦り切れた革張りの長椅子。エルネスタは促されるまま腰を下ろし、小刻みに震える両手を炎にかざした。
シオンは工房の奥の棚から、分厚い陶器のマグカップを二つ取り出すと、薪ストーブの上でグラグラと煮立っていた真鍮のヤカンから、湯気をもうもうと立ち上らせる熱い琥珀色の紅茶を注ぎ入れた。
そして、エルネスタの前の小さな丸テーブルの上に、コトンと置いた。
「生姜とシナモン、カルダモン、そして野生の菩提樹の花から採れた蜂蜜をたっぷり溶かしたハーブティーです。下町の薬草師から仕入れた秘伝の調合で、末梢血管を一気に拡張させ、身体の深部体温を急速に押し上げる効果があります」
「……何から何まで、用意周到ね。時計だけでなく、下町の民間療法まで熟知しているの?」
「下町の職人は体が資本ですからね。風邪を引いて寝込めば、その日のパンが買えなくなる。生きるための知恵ですよ」
エルネスタは両手で、分厚い陶器のカップをそっと包み込んだ。
じわり、と。
陶器の温もりが、痺れて感覚のなかった指先の毛細血管へと染み渡っていく。
彼女はマグカップに顔を近づけ、真剣な面持ちで、小さな唇を「ふぅー、ふぅー」と小鳥のように尖らせて、熱心に息を吹きかけ始めた。
何度も、何度も。湯気が白銀の前髪を揺らす。
先ほどまでの冷徹無比な『氷の令嬢』の仮面はどこへやら、熱いスープを前にした子供のような愛らしい仕草。
十分に息を吹きかけ、恐る恐る、カップの縁に薄い唇をつけて一口すする。
「……っ」
生姜とスパイスの鮮烈な刺激が舌先を刺激し、続いて蜂蜜の濃厚でまろやかな甘みが口いっぱいに広がる。
喉を通った熱い液体が、胃の腑から全身の血管へと温かい血潮を押し流していくような感覚。
強張っていた全身の筋肉がふっと解け、エルネスタの口から、深い、安らかな吐息が漏れた。
「……温かい。本当に、凍りついていた身体の芯まで解けていくようだわ」
エルネスタの青白かった頬に、ぽっと淡い桜色の血色が差した。
眉間の険しさがふっと消え去り、緩んだ唇の端に、年相応のあどけない、少女らしい笑みがこぼれる。
帝都警察の誰も見たことがない――『氷の令嬢』の分厚い氷壁が完全に融解した、息を呑むほどに無垢で美しい素顔だった。
シオンは作業台の脇の丸椅子に腰掛け、自らのカップを傾けながら、ストーブの炎に照らされたその横顔を、言葉もなくじっと見つめていた。
ふと、エルネスタがその視線に気づき、ハッと我に返って身を硬くした。
「な、何を見ているのよ……!」
「いえ……」シオンはふっと目を逸らし、照れ隠しにカップの縁を指先で弄んだ。
「帝国筆頭公爵家の高貴な令嬢が、下町の泥だらけの路地で張り込みをして、欠けた陶器のマグカップで安茶を啜りながら顔を綻ばせている姿は……社交界の気取った紳士たちが見たら卒倒するだろうな、と思っただけです」
「放っておいてちょうだい!」
エルネスタはカッと顔を赤らめ、そっぽを向いてカップをぎゅっと抱え直した。
「私は社交界の飾り人形じゃないわ。誰かの庇護を受けるお姫様になる気なんて微塵もない。自分の足で立ち、自分の目で真実を見届ける……それが、私の選んだ誇りある生き方よ」
「なぜそこまで、あのジュリアンを追うのです?」
シオンの静かな問いが、パチパチとはぜるストーブの音の中に落ちた。
「ジュリアンはバローニ家の巨額の財力と権力を握り、警察上層部にも太いパイプを持っている。あなたが深追いすれば、特別捜査局第一班長の地位はおろか、公爵家での立場すら危うくなる。……そこまでして、なぜたった一つの密室殺人に命を懸けるのです?」
エルネスタはカップの中の琥珀色の水面を見つめ、静かに、だが鋼のように揺るぎない声で答えた。
「……法と秩序を守るためよ。それが、警察官としての私の存在意義だから」




