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クロックワーク・アリバイ 〜裏社会の天才時計技師、自分が作った「鉄壁の不在証明」を法廷で解体する〜  作者: 六井求真


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第25話:雨の帝都~張り込みを続けるエルネスタの冷えた指先~

午後九時。

 帝都ルミナリアの空から、冷たい秋の夜雨がしとしとと降り注いでいた。

 黒ずんだ石畳は濡れて鈍い光を反射し、真鍮小路の狭い軒先からは、雨水が途切れることなくボタボタと重い音を立てて落ちていく。

 下町の喧騒は雨の中に沈み、人通りも途絶えた路地は、鉛色の静寂に包まれていた。


 クロノス堂の向かい――古びた時計部品倉庫の軒下。

 暗がりの中に、一人きりで直立不動の姿勢を保ち続けている人影があった。


 エルネスタ・フォン・ヴァレンタイン警視。

 彼女は部下の捜査官たちを全員本庁へ帰還させ、自らの意志で、この雨の路地に単身で張り込んでいた。

 漆黒の軍服コートは湿り気を含んでずっしりと重くなり、肩口や裾には跳ね返った泥水が染みを作っている。

 何時間も冷たい外気に晒され続けた結果、白革の手袋は雨露に濡れて氷のように冷え切り、細い指先は感覚を失って紫色に変色しかけていた。

 ふぅー、と吐き出す息が、闇の中に白く溶けて消える。

 小刻みに震える顎を、奥歯をギリリと噛み締めることで必死に抑え込んでいた。


 道路を挟んだ正面、クロノス堂の二階の小窓には、温かな橙色のランプの光が灯っていた。

 夕方、特別捜査局から釈放されたシオンは、トビーに出迎えられて店へと戻り、それ以来、一度も表へ出てきていなかった。

 (……彼は、動かない。ジュリアンへの接触も、逃亡の気配もない……)


 冷たい雨水が、軒先のトタン板からエルネスタの白銀の髪へと滴り落ち、額から頬へと冷たく伝う。

 身体の芯まで凍てつく寒さ。

 だが、エルネスタは決してその場を動こうとはしなかった。

 もし自分が目を離した隙に、シオンが何らかの証拠を闇に葬ったら?

 もし明日の朝十時までにジュリアンのアリバイを崩せなければ、罪深き親殺しの犯人が、莫大な富を手に高笑いすることになるのだ。

 自らの信じる正義の秩序。それを守るためなら、指が凍傷になろうと、この場に立ち尽くす覚悟だった。


 ――カランコロン。


 静寂を破り、クロノス堂のドアベルが、微かな鈴の音を響かせた。

 エルネスタの碧眼が、暗闇の中で瞬時に研ぎ澄まされる。

 木製の扉が開き、中から一人の長身の男が歩み出てきた。


 黒い外套を羽織り、大きな黒いこうもり傘を差したシオン・アルスター。

 シオンは濡れた石畳を踏み締め、迷うことのない足取りで、真っ直ぐに道路を横切り――エルネスタが身を潜めている暗い軒下へと歩み寄ってきた。


 エルネスタは息を呑み、反射的に腰のホルスターへと手を伸ばした。

 だが、シオンは敵意など微塵も見せず、彼女の頭上にすっと黒傘を差し掛けた。

 雨の冷たい滴が、パタリと遮られる。


「……シオン。何の真似かしら」

 エルネスタは警戒を解かず、冷え切った唇を震わせながら鋭く睨みつけた。

「私を尾行者として警察に通報する気? それとも、口封じにでも来たのかしら?」


「雨宿りのお誘いですよ、頑固なエルネスタ警視」

 シオンは呆れたように息をつき、首を横に振った。

 彼はコートのポケットから、小さな陶器製の円筒形の水筒を取り出し、エルネスタの目の前に差し出した。

 栓を抜くと、ふわりと立ち上る、シナモンと生姜、そして濃厚なミルクの甘い芳香。


「生姜とシナモンをたっぷり煮出した、下町特製のスパイシー・ミルクティーです。砂糖も大さじ三杯入れてありますから、熱量補給には最適ですよ。……もちろん、熱いのが苦手なあなたのために、人肌より少し温かい程度まで冷ましてあります」


「な……っ!?」

 エルネスタの碧眼が、驚愕に見開かれた。

 猫舌であることまで計算に入れた温度調整。

 そして――自分が向かいの暗がりに潜んでいたことを、完全に把握していた事実。


「あなた……最初から、私がここにいることに気づいていたの……?」

「気づかないはずがないでしょう」

 シオンはクスリと笑い、自らの耳元を指差した。


「規則正しく刻まれる、一分間に十八回の張り詰めた呼吸音。そして、寒さに耐えかねてわずかに石畳を踏み換える、軍靴の鋲の擦れ音。……時計師の耳は、百メートル先の脱進機の油切れの音すら聞き分けます。こんな狭い路地裏の気配など、丸聞こえですよ」


 エルネスタは言葉を失った。

 一流の捜査官として完璧に気配を消していたはずの自分が、この青年の前では、まるでガラス張りの部屋に立っていたも同然だったのだ。


「受け取りなさい。手がかじかんで、いざという時にリボルバーの引き金も引けないでしょう」

 シオンは強引に、エルネスタの冷え切った両手に温かい陶器の水筒を押し込ませた。

 じわり、と。

 陶器を通じて、凍りついていた皮膚に熱が蘇っていく。

 エルネスタは拒絶しようとしたが、身体が求めていた温もりに抗えず、思わず水筒を胸元に抱きしめてしまった。

 一口含むと、甘くスパイシーな熱い液体が喉を通り、胃の奥から冷え切った五臓六腑をじんわりと解かしていく。


「……美味いわ。悔しいけれど……身体に染みるわ」

 エルネスタは俯き、小さく呟いた。

 一本の傘の下。至近距離に並ぶ、シオンの肩とエルネスタの肩。

 雨音だけが、二人の周囲を優しく包み込んでいた。


「シオン。なぜ、私を助けるの? 私はあなたを殺人共犯として追い詰める捜査官なのよ」

「あなたが、真実を求めているからです」

 シオンの静かな声が、雨音に重なった。


「ジュリアンは冷酷な親殺しの犯人だ。私の時計を凶器として利用したあいつを、私は絶対に許さない。……そしてあなたも、上層部の圧力に屈せず、たった一人でその真実を暴こうとしている」


 シオンは視線を落とし、エルネスタの軍服の左胸ポケット――そこに収められた、銀色の鎖を見つめた。

 そして、静かに、だが確信に満ちた声で告げた。


「エルネスタ警視。その止まった懐中時計……亡きお母上の形見を、私に預けていただけませんか?」

「えっ……?」


「明日の朝十時までに……私が完璧に修理して、動かして見せましょう。そして――ジュリアンが仕掛けた【鉄壁のアリバイの真のカラクリ】を、物理的証拠と共に、あなたに解体して差し上げます」

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