第24話:共犯の包囲網~警察庁の指名手配寸前の緊迫~
午後七時。
帝国警察本庁・最上階の特別捜査局長室。
豪奢な赤絨毯が敷き詰められた広大な部屋の中、激しい怒声がシャンデリアのクリスタルを震わせていた。
「正気か、エルネスタ・フォン・ヴァレンタイン警視!!」
執務机の奥で仁王立ちになり、激昂した唾を撒き散らしていたのは、特別捜査局長のボールドウィン中将だった。
胸元に幾重もの名誉勲章をジャラジャラと佩用し、肥満体の巨躯を軍服に詰め込んだ典型的官僚。その顔は怒りで赤黒く鬱血していた。
机の上には、帝国議会の貴族院、および法務大臣直筆の抗議文が乱暴に叩きつけられている。
「バローニ家の若殿を任意同行と称して半日も留置し、あまつさえ『時計の熱膨張によるアリバイ偽装』などという荒唐無稽な妄想で恫喝したそうだな! 先ほどモリス弁護士から法務大臣へ、警察の職権濫用と不法拘禁に関する猛烈な告発状が届いた! どう落とし前をつける気だ!」
「中将閣下、私の推理は妄想などではありません」
エルネスタは直立不動の姿勢を崩さず、氷のように冷徹な瞳で反論した。
「現場のグランドファーザー・クロックからは、意図的な摩擦遅延を引き起こす特殊調合油が検出されました。そして暖炉の燃焼温度と真鍮の熱膨張係数を計算すれば、事件時刻にきっかり五分間の遅れを生じさせることは科学的に完全な可能です。ジュリアン・フォン・バローニは、カイル子爵令息を欺き、偽りの不在証明を――」
「証拠はあるのか!!」
ボールドウィン局長は机を力任せにバンと叩いた。
「裁判所に提出できる、絶対の物証はあるのかと聞いているのだ! 暖炉の灰から熱膨張の証拠が出たのか!? ジュリアン様の手から青酸カリの粉末が出たのか!? 何も出とらんではないか!」
「それは……現在、鑑識班に灰の極微シリカ分析を急がせております」
「戯言を抜かすな! 相手は帝国中央銀行の最大株主、バローニ侯爵家の新当主だぞ! 帝国の経済界を敵に回して、灰の埃を数えて何になる!」
ボールドウィン局長は荒い息を吐きながら、机の上の書類を乱暴に払いのけた。
その隙間から、エルネスタの鋭い視線は、局長の個人引き出しの奥に覗いていた【バローニ家系列の金融公社からの政治献金を示す金箔の封筒】を見逃さなかった。
(……やはり。警察上層部も、バローニ家の金に首まで浸かっているのね)
吐き気を催すほどの腐敗。だが、それが帝都の権力構造の冷酷な現実だった。
「命令だ、エルネスタ警視。明朝午前十時までにジュリアン様への容疑を裏付ける決定的な直接物証を提出できなければ、彼を即座に完全釈放とする。……そして、下町の時計屋シオンとやらもだ。確たる物証がないなら、今すぐ釈放しろ。任意同行の制限時間はとうに超過している!」
「シオンは共謀の重要参考人です! 彼を釈放すれば、証拠隠滅や逃亡の恐れが――」
「法的手続きの限界だ! 公爵家の令嬢だからと甘やかされてきたお前が、警察の規則を破ることは許さん! これ以上命令に背くなら、貴様から第一班長の指揮権を剥奪し、停職処分にする! ……下がれ!!」
エルネスタは唇を強く噛み、無言で敬礼して局長室を退出した。
大理石の重い扉が閉ざされた瞬間、全身から力が抜け、壁に背中をもたれかけそうになるのを必死に堪えた。
「……よう、お嬢ちゃん。手酷く油を絞られたようだな」
廊下の角の影から、泥色のトレンチコートを着た無精髭の男が、火のついていない安煙草をくわえて姿を現した。刑事課捜査第一係長のギルバート警部だった。
「ギルバート警部……盗み聞きですか」
「盗み聞きじゃねえよ。局長の怒鳴り声が廊下の端まで響いてたんだよ」
ギルバートは苦笑し、胸ポケットから煙草の箱を差し出した。「吸うか? 気休めくらいにはなるぜ」。
「未成年ではありませんが、煙草は嫌いです」エルネスタは冷たく撥ねつけた。
「けっ、相変わらず愛想のねえこった。……だがよ、お嬢ちゃん。あのボールドウィン豚野郎の言う通り、警察の組織ってのは正義じゃ動かねえ。金とメンツと政治で動くのさ」
ギルバートは煙草を指先で弄びながら、低い声で囁いた。
「だがな……俺もあのジュリアンの面の皮の厚さは反吐が出るほど気に入らねえ。あいつは父親を殺して、平然と巨額の遺産をせしめる気だ。……シオンの兄ちゃんを、釈放してやれ」
「なんですって……?」
「泳がせるのさ」
ギルバートの濁った瞳の奥に、老獪な猟犬の光が宿った。
「シオンの兄ちゃんは、ただの修理屋じゃねえ。頭のキレはあんた以上かもしれん。……檻の中に閉じ込めて尋問したところで、あんな鉄の心臓の男が吐くわけがねえだろうが。外に出して、自由にさせてやれ。もし本当に共犯なら、必ずジュリアンと接触するか、証拠を始末しに動く。……それをケツから尾行して、現行犯で押さえればいい」
エルネスタの碧眼に、鋭い光が戻った。
泳がせ捜査。
組織の鎖に縛られた取調室を飛び出し、現場の闇の中で真実を直接掴み取る。
「……ギルバート警部。たまには役に立つ助言をするのですね」
「へっ、余計なお世話だ。……行くならさっさと行け。夜の帝都は冷えるぜ、お嬢ちゃん」
エルネスタは踵を返し、地下の取調室へと駆け下りていった。
タイムリミットは、明朝午前十時。
残された時間は、あと十五時間しかなかった。




