第22話:取調室の対決~指先に残る特殊旋盤の痕跡~
午後四時。
帝都警察本庁の最深部、特別捜査局の地下取調室。
地上から隔絶された冷たい花崗岩の壁は、秋の寒気を芯まで吸い込み、吐く息がうっすらと白くにじむほど冷え切っていた。頭上の鉄格子付きランプからは、ガス灯がジュウジュウと鈍い燃焼音を立て、青白い不気味な光で無骨な鉄の机と二脚の椅子を照らし出している。
シオン・アルスターは、その冷たい鉄の椅子に、背筋を真っ直ぐに伸ばして腰掛けていた。
手錠はかけられていない。逃亡の気配も、怯えの色も微塵もなく、まるで自分の工房の作業台の前にいるかのように静謐な佇まいを崩していなかった。
カツ、カツ、カツ。
鉄の重い扉が開き、軍靴の足音と共にエルネスタが入ってきた。手には黒革のバインダー。その後ろには、速記用の羽根ペンとインク壺を抱えた若い記録係の局員が緊張した面持ちで続いている。
「下がりなさい。記録係は不要です。……扉の外で待機を」
エルネスタの冷徹な一言に、記録係は「はっ!」と敬礼し、慌てて部屋から退室した。重厚な鉄扉がガチャンと音を立てて閉ざされ、地下室にはシオンとエルネスタの二人きりの空気が満ちた。
「記録も取らずに二人きりですか、エルネスタ警視。密室で容疑者を拷問でもなさるおつもりで?」
「私を野蛮な憲兵と一緒にしないでいただきたいわね」
エルネスタは机を挟んだ正面の椅子を引き、軍服コートの裾を払って優雅に腰掛けた。
彼女は白革の手袋を指先からゆっくりと外し、机の上に置いた。
「シオン。両手を机の上に出しなさい。掌を上に向けて」
シオンは促されるまま、作業用スモックの袖口から両手を差し出した。
エルネスタは身を乗り出し、その白く冷たい両手で、シオンの右手をそっと持ち上げた。
触れ合う皮膚の感触。
冷え切った地下室の中で、シオンの掌は驚くほど温かく、エルネスタの指先は氷のように冷たかった。
だがエルネスタはそんな体温の差など気にする様子もなく、真剣な眼差しで、シオンの指先を舐めるように検分し始めた。
「……右手の親指、人差し指、そして中指の第一関節。著しい角質化と硬質な胼胝ね。さらに、指紋の溝の奥深く……炭素鋼と真鍮の極微細な金属粉末が、皮膚組織の隙間に沈着している」
エルネスタの冷徹な分析が紡がれる。
「これは、汎用のヤスリやドライバーを握った程度では絶対に形成されない。百分の一ミリ……いえ、千分の一ミリ単位の誤差すら許されない超精密旋盤を、顕微鏡を覗き込みながら何千時間も操作し続けた『国家最高峰の職人』の指先よ。下町の目覚まし時計や振り子時計を油差ししているだけの修理屋が、こんな指先を持っているはずがないわ」
「職人が仕事の手を持っていることが、何の犯罪の証拠になるのです?」
「それだけではないわ」
エルネスタの冷たい指先が、シオンの右手首の内側へと滑った。
脈拍がトク、トクと静かに刻まれる血管のすぐ脇。そこに、薄く引き伸ばされた、古い火傷のケロイド痕があった。
「この火傷の痕跡……帝国暦八百三十二年、十年前の冬に発生した『帝都大時計塔大火災』の際のものね。当時、帝国最高峰の時計技師であり、あなたの恩師であったクラウス・フォン・アルスター技師が業火の中で焼死した。……そして当時十四歳だったあなたは、燃え盛る機械室の歯車の間から奇跡的に救出された、唯一の生き残りだった」
ピクリ、と。
シオンの指先が、わずかに反応した。
琥珀色の瞳の奥に、普段の飄々とした笑みとはまるで異なる、深淵のような冷たい怒りの炎が揺らめく。
エルネスタはその微小な変化を見逃さなかった。
「大火災は公式には『石炭ボイラーの過熱による事故』として処理されたけれど……あなたは事故など信じていなかった。恩師クラウスの死は、時計塔の利権を狙う何者かによって仕組まれた暗殺だと確信し、その真相を暴くためにアカデミーに入り、そして裏切られて下町へ消えた。……そうね、シオン?」
「……よく調べられている」
シオンの声は低く、地鳴りのように静かだった。
「ですが警視殿、私の過去がどうあれ、それが昨夜のバローニ侯爵の死と何の関係があるのです? 私はジュリアン様に頼まれ、大時計に油を差しただけだ。私が彼と共謀して父親を毒殺したというなら、証拠を提示してください。毒物の入手経路、現場への侵入経路、あるいは犯行を指示した密約の書簡を」
「……」
エルネスタは言葉に詰まった。
痛いところを突かれたのだ。
帳簿の金貨百枚という異常な金額と、シオンの超絶的な精密機械技術。状況証拠は真っ黒だ。
だが――青酸カリの入手ルートを洗ってもシオンの名は出ず、工房からも毒物は一切検出されなかった。ジュリアンとの間に交わされた手紙もなければ、シオンが昨夜西棟の密室へ近づいた目撃証言もゼロ。
裁判所に提出できる『直接的物証』が、何一つとして存在しないのだ。
「フ……どうやら、これ以上の尋問は時間の無駄のようですね」
シオンは静かに微笑み、エルネスタの手から自らの右手を引き抜こうとした。
――その瞬間だった。
「あっ……」
エルネスタはハッと我に返った。
自分がシオンの掌を両手で包み込み、まるで恋人同士のように熱心に見つめ合っていた体勢に、今さらながら気づいたのだ。
雪のように白い頬が、耳の付け根まで一瞬でカーッと紅潮する。
「べ、別にあなたの手を握りたくて握っていたわけではありません! 捜査上の鑑識検分です!」
エルネスタは弾かれたように手を引っ込め、立ち上がって軍服の襟元を正した。
シオンはクスリと笑い、自らの掌を握り直した。
「分かっておりますよ、警視殿。ですが……氷のように冷たい手でしたね。少しは暖炉の火に当たられた方がよろしいのでは?」
「余計なお世話です!」
エルネスタは冷徹な仮面を必死に取り繕い、踵を返して鉄扉へと向かった。
「ジュリアン・フォン・バローニの再聴取を行います。……彼を問い詰めれば、あなたとの共謀のボロは必ず出るわ!」




