第21話:押収された帳簿と、ジュリアンの名~「金貨百枚の報酬」~
「決定的証拠だと?」
エルネスタは瞬時に動揺を吹き飛ばし、冷徹な捜査官の表情へと戻った。
駆け寄ってきた局員の手には、黒革で装丁された一冊の古い帳簿が握られていた。
「これをご覧ください、警視! 工房の『特命作業記録簿』です! 昨日の日付の欄に、信じがたい金額が記載されています!」
局員が開いた頁を、エルネスタの目の前に突きつけた。
上等なインクで、几帳面な流麗な筆致で記された一行。
『帝国暦八百四十二年 十月十四日(昨日)
依頼人:ジュリアン・フォン・バローニ様
作業内容:東棟書斎・大型振り子時計の緊急点検、脱進機への特注遅延潤滑油塗布、熱膨張シミュレーション補正
受領報酬:純金大金貨 百枚』
「金貨……百枚……!?」
エルネスタの喉から、鋭い息が漏れた。
帝国の大金貨百枚。
それは、下町の一般市民が汗水垂らして十年間働いても稼げないほどの巨額の富だ。
通常の時計修理の相場が銀貨数枚から精々十枚程度であることを考えれば、この金額は明らかに狂気の沙汰だった。
「警視! 時計に油を差すだけの作業に、金貨百枚を支払う依頼人などこの世に存在しません!」
局員が興奮した声で叫ぶ。
「これはどう見ても、バローニ侯爵殺害の鉄壁のアリバイ工作を依頼された『共謀の報酬』そのものです! 現行の殺人共犯容疑として、即座に身柄を拘束すべきです!」
局員たちの目が、一斉に獣のようにギラついた。
金貨百枚の記載。
これほど明確な金銭授受の記録があれば、裁判所への逮捕状請求など一瞬で通る。
エルネスタは帳簿を自らの手で受け取り、シオンへと鋭い視線を突き刺した。
「シオン。これについて、どのような弁明をするつもりですか? 時計の油差しに金貨百枚……これが正常な職人の報酬だと、本気で言い張るつもり?」
トビーが息を呑み、青ざめてシオンにしがみついた。
「お、親方……! なんでそんなこと帳簿に書いちゃったんだよ……!」
だが、シオンは微塵も取り乱さなかった。
手元のピンセットを置き、静かに立ち上がると、淡々とした口調で応じた。
「弁明など必要ありませんよ。事実をそのまま帳簿に記載したまでです」
「事実ですって?」
「ええ。帝国の税法では、金貨五枚以上のすべての取引において、帳簿への記載と納税の義務が定められています。私が隠し立てをせず、正確な日付と金額を記していたこと自体が、正当な商取引である証拠ではありませんか。後ろ暗い犯罪の共謀金なら、わざわざ自分の帳簿に書くような間抜けはいませんよ」
「屁理屈を言わないで!」
エルネスタがピシャリと遮った。
「問題は、なぜそれほどの巨額が支払われたかです! あなたがジュリアンに『時間を狂わせる工作』を施した対価として、法外な報酬を受け取ったと見るのが捜査上の当然の論理よ!」
「相手は帝都有数の大富豪の若殿ですよ、エルネスタ警視」
シオンは冷ややかに微笑んだ。
「昨日、ジュリアン様は血相を変えて私の工房に飛び込んできました。『今すぐ来い、我が儘を聞け、誰にも言わずに最優先で作業しろ』とね。金に糸目をつけない傲慢な貴族の特急依頼に対し、下町の職人が相応の特急料金を請求して何が悪いのです? 高い報酬を提示されたから引き受けた。商人として、極めて健全な経済活動です」
「……どこまでも論理の盾に隠れる男ね」
エルネスタの碧眼に、冷徹な火花が散った。
彼女は帳簿をバチンと閉じ、胸ポケットへと収めた。
「ですがシオン、あなたの言い分がどうであれ、この帳簿はジュリアンとあなたの間に『特別な密約』が存在したことを示す極めて有力な状況証拠です。……あなたを重要参考人として、特別捜査局本庁へ任意同行します」
「断れば?」
「拒否権はありません。即時に公務執行妨害および殺人共犯の嫌疑で緊急逮捕に切り替えます」
エルネスタが手を挙げると、四人の局員が一斉にシオンを取り囲み、冷たい真鍮の手錠をジャラリと鳴らした。
「親方を連れて行くなーーーっ!!」
トビーが涙を流しながら捜査官の腰に噛みつかんばかりに飛びついた。
「親方は人を殺したりなんかしてない! 昨日の夜だって、ずっと店で悔しそうに机に向かってたんだ! 親方をいじめるな、この野暮天警察!」
「トビー、よしなさい」
シオンがトビーの肩に優しく手を置いた。少年の目から溢れる涙を、指先でそっと拭ってやる。
「大丈夫だ。私は何も悪いことはしていない。少し特別捜査局の立派な取調室で、エルネスタ警視と知恵比べをしてくるだけだ。……工房の火の元に気をつけて、留守番を頼むよ」
「お、親方……ぐすっ……本当に戻ってくる……?」
「約束するよ。私は必ず、自分の足でこの店に帰ってくる」
シオンはトビーを安心させるように微笑むと、背筋を伸ばし、自ら両手を前に差し出した。
局員たちが警戒しながら手錠をかけようとした瞬間――。
「待ちなさい。手錠は不要です」
エルネスタが制止した。
「彼は逃亡も抵抗もしていません。……それに、手錠をかけるまでもなく、私の監視下から逃げられると思わないことです」
シオンはクスリと笑い、エルネスタの碧眼を真っ直ぐに見据えた。
その瞳の奥に宿る、圧倒的なまでの自信と、知的な挑発。
「賢明なご判断です、エルネスタ警視。……ですが、一つだけ忠告しておきましょう」
「忠告?」
「ええ。もしあなた方が私をこのまま檻に閉じ込めて満足するなら……あなた方は一生、バローニ侯爵邸の【密室毒殺の真のカラクリ】を解くことはできませんよ」
「……何ですって?」
エルネスタの表情が凍りついた。
「あの現場の五キロの鉄の閂、窓の防弾ガラス、そして酒のボトルではなくグラスだけに仕込まれた毒。……あの一連の不可能犯罪のパズルには、時計工学の専門家でなければ絶対に見抜けない【時間と空間の盲点】が存在する。私を容疑者として排除すれば、真犯人はまんまと巨額の遺産を手にして高笑いすることになる」
シオンは不敵な笑みを浮かべ、大股で工房の扉へと歩み出した。
「さあ、参りましょうか、特別捜査局へ。……私の知能が、あなたの正義の役に立つかどうか、試してみるといい」
容疑者でありながら、捜査の主導権を握るかのような堂々たる態度。
エルネスタは息を呑み、その背中を追いかけながら、かつてない胸の激しい高鳴りを覚えていた。




