第20話:冷徹な令嬢の戸惑い~時計のコチコチ音と微かな眠気~
午後二時三十分。
クロノス堂の工房には、再び静寂が降りていた。
二人の特別捜査局員が、奥の小部屋でシオンの過去五年分の顧客台帳と仕入れ伝票を、一枚一枚透かし見ながら入念に照合している。紙が擦れ合う微かなカサカサという音と、万年筆の走る音だけが響いていた。
応接スペースの粗末な肘掛け革椅子。
エルネスタ・フォン・ヴァレンタイン警視は、背筋を定規のようにピンと伸ばし、そこに腰掛けていた。
白銀の髪、漆黒の軍服コート。一切の隙も見せまいとする姿勢は、軍隊の教範に記された厳格な規律を体現していた。
だが――その怜悧な横顔には、隠しようのない濃い疲労の影が差していた。
昨夜、バローニ侯爵邸での毒殺事件の一報が入ってから、優に十五時間。
現場の指揮、鑑識結果の精査、警察総監への第一報の起草、そして下町への電撃的な急行。彼女の並外れた頭脳は、休むことなく極限の回転を強いられ続けていた。
そこへ運ばれてきた、熱い安物のアッサムティー。
胃の腑からじんわりと全身へ広がった温もりが、張り詰めていた神経の糸を、容赦なく緩めつつあったのだ。
――コチ、コチ、コチ、コチ。
工房を取り囲む、無数の古時計たちの規則正しい秒の刻み。
それは単なる機械の騒音ではなかった。
時計職人シオン・アルスターが、長年の経験と音響工学の理論に基づき、工房全体の反響板の角度や配置を緻密に計算して作り上げた、完璧な『時間の調律』。
人間の心拍数と自然に同調し、過度の興奮を鎮静化させ、精神を深いリラックスへと誘う――いわゆる【一分間に六十拍のゆらぎのリズム】だった。
「……っ」
エルネスタの長い睫毛が、微かに震えた。
青い瞳を覆うように、瞼が重く垂れ下がってくる。
(いけない……。ここは事件関係者の拠点……私は、捜査指揮官よ……)
頭では分かっている。だが、重力に抗えない。
こくり、と。
エルネスタの小さな頭が、前方へと微かに傾いた。
肩口に束ねられた白銀のサイドテールが、ふわりと揺れる。
ハッと我に返り、エルネスタは慌てて首を振って姿勢を正した。
碧眼を鋭く見開き、周囲をギロリと睨みつける。だが、部下たちは奥の部屋で背を向けて書類に没頭しており、トビーはカウンターの隅でミートパイの残りを齧っている。
誰も見ていない――そう安堵した瞬間、再び猛烈な睡魔の波が彼女の意識を呑み込みにかかった。
こくり。
今度は、左側の壁に寄りかかるように、頭が深く傾いた。
規則正しい時計のチクタク音が、まるで優しい子守唄のように鼓膜を揺らす。
冷徹無比な『氷の令嬢』の仮面が完全に剥がれ落ち、無防備な少女のあどけない寝顔が露わになりかけた、その時だった。
スッ、と。
冷えた秋風を遮るように、厚手の柔らかなウールブランケットが、エルネスタの細い肩へと音もなく掛けられた。
羊毛の温もりと、作業油と石鹸の微かな匂い。
「――っ!?」
その瞬間、エルネスタの身体が弾かれたように跳ね起きた。
幼少期からの過酷な軍事教練が、無意識のうちに肉体を覚醒させたのだ。
彼女の右手は、電光石火の早業で腰のホルスターへと伸び、リボルバーの撃鉄を起こそうとした――。
だが。
カチャリ、と金属が鳴る前に、彼女の細い手首は、冷たく引き締まった大きな掌によって、優しく、だが寸分の狂いもなく上から制止されていた。
「銃を抜く相手を間違えていますよ、エルネスタ警視」
シオンの穏やかで、からかうような声が耳元に降ってきた。
エルネスタは息を呑み、見上げた。
至近距離に、シオンの琥珀色の瞳があった。
シオンはエルネスタの手首を痛めない程度の力加減でしっかりと押さえ、左手でずり落ちそうになったブランケットの端を整えていた。
「私のブランケットには、毒も睡眠薬も仕込んでいません。ただ……立ち眩みで倒れられて、工房の時計を壊されては困ると思っただけです」
「な……っ! 無礼な……! 離しなさい!」
エルネスタは顔をカッと紅潮させ、手首を力任せに振りほどいた。
立ち上がり、軍服の襟を正しながら、殺気配混じりの碧眼でシオンを睨みつける。
「私は眠ってなどいません! ほんの数秒、捜査方針の思考を巡らせていただけです!」
「ええ、実に見事な思考瞑想でしたね。頭が三回ほど船を漕いでいらっしゃいましたが」
「シオン……! あなた、特別捜査官に対する侮辱罪で拘束されたいのかしら!?」
「容疑者の工房で無防備に居眠りをする捜査官を気遣った親切心が、侮辱罪になるとは帝国の法律も随分と不条理ですね」
シオンは肩をすくめ、涼しい顔で作業台へと戻っていった。
エルネスタは悔しそうに唇を噛み締め、両手で自らの火照った頬を押さえた。
(信じられない……! 私が、あんな下町の修理屋の前で警戒を解いて眠りかけるなんて……!)
屈辱と、そしてどこか胸の奥が温かくなるような奇妙な動揺が、彼女の冷静な思考を激しく乱していた。
――だが、その気まずい空気を叩き壊すように。
奥の部屋から、局員が血相を変えて書類を掲げながら飛び出してきた。
「警視! ありました! 決定的証拠です!」




