第19話:トビーの奮闘~安物アッサムティーでのおもてなし~
「毒物だと……?」
エルネスタは鋭く目を細め、局員の手にある遮光瓶へと視線を走らせた。
茶褐色のガラス瓶の蓋は鉛で密封され、微かに金属質の重みを感じさせる。
「シオン。この薬品は何ですか? なぜラベルが意図的に剥がされているの?」
「ラベルが剥がれているのは、単に三年前の作業中にアルコールをこぼしてインクが溶けてしまったからですよ」
シオンは肩をすくめ、至って平然と答えた。
「右側の瓶は、時計の夜光塗料に使う微細な硫化亜鉛粉末。そして左側の瓶は、文字盤を暗闇で光らせるための微量ラジウム化合物です。……もし青酸カリをお探しなら、私の工房には一粒もありませんよ。そんな強酸性・腐食性の毒物を時計工房に置いたら、大気中の湿気と反応してシアン化水素ガスを発生させ、棚の繊細な真鍮歯車が全部緑青を吹いて腐ってしまいます。職人なら誰もしない自殺行為です」
「口八丁で誤魔化されないわ。鑑識、簡易試薬キットで青酸反応を調べなさい」
「はっ!」
局員の一人が携帯用木箱から試験管と試薬瓶を取り出し、ガラス棒で瓶の中の粉末を極微量採取して薬品を滴下した。
硫酸第一鉄と水酸化ナトリウム溶液。
もし青酸カリウムが存在すれば、プルシアンブルーの鮮やかな藍色沈殿が生じるはずだった。
数秒後。
試験管の中の液体は、濁った黄褐色のまま、何の変化も示さなかった。
「……呈色反応なし。青酸系化合物ではありません。店主の供述通り、単なる夜光塗料の無機顔料です」
鑑識官が忌々しそうに報告した。
「チッ……」
捜査官たちが舌打ちし、気まずい沈黙が工房に重く垂れ込める。
エルネスタは眉間に微かな皺を刻み、唇を噛んだ。
家宅捜索で毒物も出なければ、ジュリアンとの共謀を示す手紙や借用書も出てこない。時計油の一致という状況証拠だけでは、この冷静沈着な男を殺人共犯として勾留することは法的に不可能だった。
張り詰めた空気の中、捜査官たちとエルネスタの視線が、再びシオンへと集中する。
その時だった。
「ほ、ほら! あんたたち、そんな怖い顔してないで、これでも飲んで頭冷やしなよ!」
工房の奥の小部屋から、トビーが両手でお盆を抱え、小走りで現れた。
お盆の上には、湯気をもうもうと立ち上らせる陶器のマグカップがいくつも並んでいる。
取っ手が少し欠け、長年の茶渋が染み付いた、いかにも下町の庶民が使う無骨なカップだった。
「トビー、お前……」
シオンが苦笑混じりに呟く。
トビーはお盆を、エルネスタが陣取る応接テーブルの真ん中にドンと置いた。
「親方が淹れるアッサムティーはさ、茶葉は安物だけど、下町で一番身体が温まるんだ! 朝から血相変えて人んちを家捜しして、喉がカラカラだろ! ほら、警視様もどうぞ!」
トビーは恐れを知らぬ勢いで、エルネスタの目の前に、なみなみと注がれた熱い紅茶のマグカップを突き出した。
立ち上る、濃厚で香ばしい麦芽のような香気と、湯気の熱気。
「なっ……! 無礼な! 捜査中に容疑者の差し入れを口にするわけが――」
局員がトビーを怒鳴りつけようと手を伸ばした瞬間、エルネスタが制止の手を挙げた。
「……やめなさい」
エルネスタはマグカップを見つめた。
公爵家の屋敷で出されるような、薄い白磁のマイセンのティーカップではない。金彩もなければ、ダージリンの繊細な花のような香りもない。
無骨で、分厚く、庶民の逞しい生活の匂いが染み付いた、泥臭い下町の紅茶。
エルネスタの喉が、微かに上下した。
実は――昨夜、バローニ侯爵殺害の一報を受けてから、彼女は十四時間もの間、水の一滴すら口にしていなかった。徹夜で現場を統括し、書類を精査し、息つく暇もなくこの下町まで馬車を飛ばしてきたのだ。冷え切った秋の風に晒され続けた身体は、限界まで冷え切っていた。
「……毒は入っていないでしょうね?」
エルネスタがじとっとした視線でシオンを見上げる。
「先ほどあなたが証明してくださった通り、私の工房には毒薬の小瓶など一粒もありませんよ」
シオンは穏やかに微笑み、自ら自分のカップを取り、一口すする仕草を見せた。
エルネスタは小さく息をつき、白革の手袋を脱ぐと、両手でマグカップをそっと包み込んだ。
じわりと、陶器の温もりが冷え切った指先に染み渡っていく。
だが――エルネスタはすぐに飲もうとはしなかった。
「……」
彼女はマグカップに顔を近づけ、真剣な面持ちで、小さな唇を「ふぅー、ふぅー」と小鳥のように尖らせて、熱心に息を吹きかけ始めた。
何度も、何度も。
熱い湯気が白銀の前髪を揺らす。
先ほどまでの氷のように冷徹な女性警視の威厳はどこへやら、まるで熱いスープを前にした小さな子供のような仕草。
「(……猫舌か)」
シオンは思わず、吹き出しそうになるのを喉の奥で必死に堪えた。
トビーも目を丸くして、その様子をぽかんと見つめている。
エルネスタは十分ほどかけて息を吹きかけ、恐る恐る、カップの縁に薄い唇をつけた。
ちびり、と一口。
「……熱っ」
エルネスタは眉をきゅっと寄せて身をすくめたが、すぐに瞳を丸くした。
口いっぱいに広がる、力強いコクと芳醇な甘み。渋みは強いが、冷え切った胃の腑に熱いエネルギーが染み渡り、強張っていた全身の筋肉がふっと解けていく。
「……悪くないわ」
エルネスタはカップを両手で持ったまま、ポツリと呟いた。
「茶葉のグレードは下級品。湯の温度が高すぎてタンニンが過剰に抽出されているけれど……淹れ手の火加減と蒸らし時間は正確ね。冷えた身体には……実に心地よいわ」
「それは光栄です、お嬢様」
シオンがからかうように頭を下げると、エルネスタはハッと我に返った。
自分が容疑者の工房で、すっかり気を緩めて紅茶を味わっていたことに気づき、雪のような白い頬が、耳の付け根まで一瞬でカッと林檎のように真っ赤に染まり上がった。
「お、お嬢様と呼ぶなと言ったはずよ! 私は特別捜査局警視です!」
エルネスタはマグカップを急いでテーブルに置き、咳払いを一つして、必死に冷徹なポーカーフェイスを取り繕った。
トビーが「へへっ、お姉ちゃん、照れてやんの!」と笑うと、エルネスタはキッと碧眼を吊り上げて睨みつけたが、その瞳には先ほどのような氷の殺気はすでに消え失せていた。
下町の安物のアッサムティーが、二人の天才の間に張り詰めていた絶対零度の氷壁を、ほんの少しだけ溶かした瞬間だった。




