第18話:シオンのポーカーフェイス~「私はただ油を差しただけです」~
「捜索を開始しなさい。帳簿、工具、薬品庫、通信記録……事件に関わる物証を一つ残らず押収するのです」
エルネスタの冷徹な号令に、四人の特別捜査局員が一斉に工房の奥へと散った。
屈強な男たちの荒々しい軍靴が、床板をきしませる。作業机の引き出しが無造作に引き出され、年季の入った羊皮紙の帳簿がバタバタとめくられ、棚に並ぶ無数の真鍮部品、鋼鉄のカナ、極小のルビー軸受が収められたガラス小瓶が、ガチャガチャと金属の悲鳴のような音を立てて検分されていく。
繊細な精密機械を組み上げる聖域である工房の空気が、国家権力の土足によって暴力的にかき乱されていた。
「おい、そこを触るな! それは客から預かってる百年物のオルゴールだぞ!」
トビーが叫ぶ。棚から滑り落ちそうになった精密な真鍮製天秤棒を、シオンは目にも止まらぬ速さで片手で空中で受け止め、何事もなかったかのように作業台の安全な隅へと置いた。
その所作には、一切の荒々しさも焦燥もない。静かな水面のように透き通った平静さを保ち、腕を組んで捜査官たちの動きを見守っていた。
エルネスタはそんなシオンの横顔を、値踏みするように冷ややかな碧眼で射抜いた。
「驚くほど冷静ですね、シオン・アルスター。普通の下町の職人なら、特別捜査局の令状による家宅捜索を受ければ取り乱し、泣き喚くか怒鳴り散らすものですが」
「無実の人間が取り乱す理由などありませんよ。それに……私の工房の整理整頓は完璧です。捜査官の皆様がどれほど乱雑に引っ掻き回そうと、元の位置に戻すのは造作もないことですから」
「ふふ……どこまでも減らず口を叩く男ね。その鉄の心臓は、生まれつきのものかしら?」
エルネスタは小さく鼻を鳴らし、漆黒の軍服コートのポケットに白革の手袋の手を滑り込ませた。
「シオン・アルスター、二十四歳。帝国中央工科学アカデミー・精密機械工学科を歴代最高得点で首席合格。在学中には弱冠二十歳で『脱進機における摩擦熱力学補正モデル』の論文を発表し、アカデミーの教授陣や時計工学会の重鎮たちを震撼させた帝都屈指の神童。……私も警察大学校の講義で、あなたのその論文を読まされました。温度や摩擦の変動を逆手に取って機構を制御するその理論は、美しく、同時に極めて危険な悪魔の知性だと評されていたわ」
エルネスタは一歩、シオンへと歩み寄った。
白銀の髪がさらりと肩から滑り落ち、研ぎ澄まされた冷気がシオンの肌を撫でる。
「だが三年前、あなたは突如としてアカデミーを中退した。時計塔の改修計画を巡る教授との対立とも噂されたけれど、帝国軍や大財閥からの破格の招聘をすべて蹴り飛ばして、この下町の煤けた長屋に身を隠した。……なぜかしら? 将来を嘱望された天才技師が、なぜこんな路地裏の埃っぽい修理屋で燻っているの? その並外れた知能と工学技術を、表舞台では扱えない『裏社会の犯罪者たち』に高く売りつけるためではないのかしら? バローニ侯爵邸のジュリアンに、完全無欠のアリバイ時計を仕立ててやったように」
痛烈な揺さぶり。
相手の過去の学歴と論文、そして挫折の傷口を抉り出し、動機と犯罪性を論理的に結びつける、エリート捜査官ならではの怜悧な尋問術。
だが、シオンは眉一つ動かさず、静かにエルネスタの氷の碧眼を見つめ返した。
「人は誰しも、静かに時を刻みたい場所があるのですよ、エルネスタ警視」
「……何?」
「帝都有数の名門にして、帝国筆頭公爵家であるヴァレンタイン家の深窓の令嬢。社交界のあらゆる求婚を袖にし、華やかな舞踏会のシルクドレスを脱ぎ捨てて、血と泥に塗れた警察の最前線でリボルバーを抜いているあなたのようにね」
ピシリ、と。
エルネスタの呼吸が、ほんの一瞬だけ止まった。
雪のような白い頬に、微かな緊張が走る。
「……私の出自を調べ上げていたの?」
「調べるまでもありませんよ。帝都の新聞を飾る美貌の女性警視の噂は、下町の酒場にすら届いています。何より――その立ち居振る舞いです」
シオンは視線を下げ、エルネスタの全身を時計師の観察眼で静かにプロファイリングしていった。
「歩幅は常に六十五センチ、寸分のズレもない等間隔。背筋の伸び方は帝立軍官学校の厳格な教範そのもの。軍服コートの金ボタンは純度九十パーセント以上の特注真鍮で、ヴァレンタイン公爵家の家紋である『氷の百合』が微小に刻印されている。指先には銃把を握り締めた硬質な胼胝と、同時に万年筆を酷使した知性派の証拠が刻まれている。……そして何より」
シオンの視線が、エルネスタの胸元――左胸ポケットから覗く、古い銀色の鎖へと留まった。
「左胸の懐中時計。鎖の留め金の摩耗具合から見て、少なくとも三十年以上前の旧式モデル。おそらくは、あなたが幼い頃に亡くなられたお母上の形見でしょう。針が止まったまま動いていないのは、帝都の並の職人では修理できない特殊なシリンダー脱進機が組み込まれているからですね。……壊れた時計をただ飾るのではなく、心臓のすぐ傍に肌身離さず身につけている。あなたは、その止まった時間を胸に抱きながら、誰よりも厳格に、誰よりも孤独に、自らの信じる『正義の時計』を動かそうとしている」
「な……っ!」
エルネスタの碧眼が、激しく見開かれた。
全身の血が逆流するかのような衝撃。
わずか数分対峙しただけで、彼女の出自、軍務の経歴、性格、そして誰にも触れさせまいと胸の奥底に秘めていた「母の形見の時計」の存在まで、完全に看破されたのだ。
「あなた……一体……何者なの……?」
動揺に震えるエルネスタ。
その時だった。
「警視! 奥の薬品棚から、不審な瓶を発見しました!」
奥の作業室を捜索していた局員の一人が、厳重に遮光された茶褐色のガラス小瓶を二つ、布に包んで掲げながら駆け戻ってきた。
「木箱の奥に隠すように置かれていました! ラベルが意図的に剥がされています! 薬品の臭気も極めて刺激的です! ……バローニ侯爵を殺害した青酸化合物、あるいは毒物の調合材料ではありませんか!?」
捜査官の緊張した叫びに、エルネスタはハッと我に返り、動揺を瞬時に押し殺して冷徹な捜査官の顔へと戻った。
シオンの前に、黒い手袋を嵌めた捜査官がその瓶を突きつける。
絶体絶命の証拠発見――に見えた。




