第17話:エルネスタ警視の尋問~「あなたが仕掛けたのね?」~
鐘の余韻が潮が引くように静まり返り、工房には再び、何事もなかったかのように規則正しい秒針の音だけが戻ってきた。
「……見事な調律ですね」
エルネスタは眉一つ動かさず、冷ややかに言った。
「百個以上の異なる機械が、誤差一秒未満で完全に同調して時を告げる。あなたの時計工学の腕前が、帝都でも指折りであることは疑いようもありません」
「お褒めに預かり光栄です、警視殿」
シオンは立ち上がり、作業用のエプロンを外して丁寧に畳んだ。その所作には、一切の動揺も恐れも伺えない。
「それで……公爵家の令嬢にして特別捜査局のエリート警視が、わざわざこんな下町の煤けた工房まで足を運ばれた理由は? バローニ侯爵の毒殺事件……先ほど号外で拝見しましたが、私のようなしがない修理屋に、一体何の関わりがあるとおっしゃるのです?」
「しらを切る必要はありません」
エルネスタは白革の手袋を外し、ポケットから薄い石英ガラスのプレートを取り出して、作業台の上に滑らせた。
透明なガラスの中央に、わずかに青白い蛍光を放つ、粘り気のある微小な油滴が付着している。
「これに見覚えはありませんか?」
シオンは視線を落とし、ガラスの油滴を観察した。
「……時計用の潤滑油ですね。それも、かなり上質な」
「ええ。ジュリアン・フォン・バローニの書斎に据え付けられた、グランドファーザー・クロックの脱進機――ガンギ車の歯の裏から、私が直接採取したものです。極寒地マッコウクジラの頭部油と合成シリコン。熱によって急激に粘度を増し、回転を遅延させる特殊調合油。……三年前、あなたが帝国特許庁に出願した配合比率と、完全に一致しています」
エルネスタの冷たい声が、シオンの逃げ道を塞ぐように畳み掛ける。
「昨日の正午、あなたはバローニ侯爵邸の裏門から入り、ジュリアンの書斎でその大時計に細工を施しましたね? そして昨夜、バローニ侯爵が西棟の密室で毒殺されたまさにその時刻――午後九時四十五分から十時零零分の間、ジュリアンには『書斎で友人とチェスを指しながら、その大時計を見ていた』という完璧な不在証明が存在する」
エルネスタは一歩踏み込み、シオンの顔を覗き込むように碧眼を研ぎ澄ませた。
「あなたが、時間を狂わせたのね? ジュリアンに依頼され、彼に完全な不在証明を与えるために……あの時計の針を五分間遅らせる罠を仕掛けた。そうでしょう、シオン・アルスター?」
息詰まるような沈黙が、工房を支配した。
壁際で控えていた捜査官たちが、いつでもシオンを取り押さえられるよう、ホルスターの留め具に手をかける。トビーは息を止め、青ざめた顔でシオンを見つめていた。
だが――シオンは、動じなかった。
ふっと、口元に微かな、涼やかな笑みを浮かべたのだ。
「なるほど。流石は『氷の令嬢』と恐れられるエルネスタ警視、現場の微小な油滴から私の工房まで辿り着くその鑑識眼、実にお見事です。……ええ、認めましょう。昨日の昼、私はジュリアン様の書斎の大時計に油を差しました」
「……自白する気になりましたか」
「いいえ。私が認めたのは『油を差した事実』だけであり、あなたが組み立てた推理は、根本的な部分で重大な論理的破綻を抱えています」
「論理的破綻……?」
エルネスタの形の良い眉が、わずかにピクリと跳ね上がった。
「ええ。警視殿、あなたの仮説は『私が大時計を五分間遅らせた』という前提に基づいていますね? では伺いますが――今朝、警察がその大時計を検分した際、時計は何時何分を指していましたか?」
「……帝都標準時と完全に一致した、午前十一時三分でした」
「そうでしょう」
シオンは作業台に両手を置き、静かに言葉を紡いだ。
「もし私が時計の針を五分遅らせていたのだとしたら……今朝の時点で、その時計は五分遅れていなければならないはずだ。なぜ、今朝の時点で一秒の狂いもなく標準時と一致していたのですか? 狂わされた精密機械が、翌朝勝手に自分の意志で五分間進んで、元の正しい時刻に復帰するとでもおっしゃるのですか?」
エルネスタの瞳の奥が、鋭く揺れた。
シオンは容赦なく、冷徹な物理の論理を突きつける。
「時計とは、歯車と振り子の等時性によって動く無機質な機構です。一度遅れた機械は、誰かが指で針を進めるか、歩度調整ネジを回さない限り、永遠に遅れ続ける。それが物理法則の絶対的な不可逆性です。……鑑識官は調べたはずです。文字盤の針を無理に回した形跡も、歯車に細工をした痕跡も、一切なかったと。それなのに『昨夜だけ五分遅れていて、今朝は元に戻っていた』などと主張するのは、物理法則そのものへの冒涜ではありませんか?」
「……!」
エルネスタの喉が、微かに鳴った。
完璧な反論。
彼女自身が現場で感じていた最大の謎――「なぜ細工の痕跡が残っていないのか」という急所を、シオン自身が正確に突いてきたのだ。
エルネスタの冷徹な仮面に、初めて、知的な好敵手を前にした動揺と興奮の微小な亀裂が走った。
彼女は小さく息を吸い込み、冷ややかな視線でシオンの琥珀色の瞳を見据え返した。
「……面白いわね。凡庸な容疑者なら『何も知らない』と怯えて逃げるところを、物理法則の不可逆性を盾にして、私の推理の盲点を突いてくるなんて。……ですが、シオン。私は決して諦めません。あなたのその完璧なポーカーフェイスの裏にある『時間のからくり』を、必ずこの手で暴いて見せます」
二人の天才の知能戦は、静かに、だが確実に火花を散らし始めていた。




