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クロックワーク・アリバイ 〜裏社会の天才時計技師、自分が作った「鉄壁の不在証明」を法廷で解体する〜  作者: 六井求真


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第16話:クロノス堂の扉を蹴破る冷徹な軍靴

午後一時。

 帝都ルミナリアの下町『真鍮小路』。

 朝からの鉛色の重苦しい雲は低く垂れ込め、雨上がりの濡れた石畳から立ち上る湿気と石炭の煙が、狭い路地を深い霧のように包んでいた。

 軒先に並ぶ鍛冶屋の金床を叩く鈍い槌音。蒸気機関の排気弁が吐き出すシューという息遣い。下町の労働者たちがせわしなく行き交う猥雑な喧騒の中に、古時計修理工房『クロノス堂』は、まるで時間の流れから切り離された孤島のように静まり返っていた。


 カチ、コチ、カチ、コチ――。

 工房の壁一面に並ぶ古時計たちが刻む、規則正しい秒の足音。

 シオン・アルスターは、樫の作業台の前に端座していた。

 作業用スモックの袖を腕まくりし、右目には使い込まれた真鍮製のキズミを装着している。手元には、百年前のアンティーク懐中時計が完全に分解され、数十個の微小な歯車やネジ、ゼンマイ・スプリングが、青いスエードの作業マットの上に秩序正しく配置されていた。


 シオンの右手にある極細のピンセットが、米粒の十分の一ほどしかない人工ルビーの軸受石(伏せ石)を、音もなく摘み上げる。

 呼吸は微動だにせず、心拍すら一定のテンポに制御されているかのような静謐。

 その卓越した集中力は、外の騒音など完全に遮断していた。


 だが――店先のカウンターの脇で、古びた藁箒を手にしていたトビーは、そうはいかなかった。

 トビーは箒を握りしめたまま、何度も何度も店の木製扉を不安そうにチラチラと見やり、小刻みに貧乏揺すりを繰り返していた。


「お、親方……本当に大丈夫なの? さっきから通りを、警察の馬車が何台もウロウロしてるよ……。貴族の屋敷であんな大事件が起きたんだ。絶対にここにも嗅ぎつけてくるって!」

「トビー」

 シオンはピンセットを微動だにさせず、穏やかだが芯の通った声で静かに諭した。

「時計の軸受にゴミが入る。掃き掃除を中断して、奥で紅茶の湯を沸かしていなさい」

「だってさぁ! 親方は昨日の昼、あの屋敷に行ったんだろ!? 警察なんて、貧乏人や下町の職人を見下して、証拠もなしに犯人に仕立て上げるのが仕事みたいな奴らばっかりなんだぞ! 親方が捕まっちゃったら、おいら……!」


 ――ガランガラン、バタンッ!!


 トビーの叫びを乱暴に叩き割るように、店の真鍮のドアベルがけたたましい悲鳴を上げ、木製の開き扉が勢いよく押し開けられた。

 冷たい秋風と共に、工房の中に吹き込んできたのは――帝都警察の最高峰、特別捜査局の放つ圧倒的な威圧感だった。


「ひっ……!?」

 トビーが息を呑んで跳び退く。

 土足で踏み込んできたのは、漆黒のウール外套に身を包み、腰に最新式の拳銃と真鍮の警棒を提げた、屈強な特別捜査局員が四名。

 彼らは無言のまま手際よく二手に分かれ、工房の出入口と奥の居住スペースへの通路を完全に封鎖した。


 そして――その中央から、静かに、だが絶対の存在感を伴って一歩前へと進み出てきた人影があった。


 カツ、カツ、カツ。

 硬質な鉄鋲を打った軍靴の足音。

 漆黒のダブルブレスト軍服コートの襟元から覗く、月光のように透き通った白銀の髪。左耳の脇で優美に束ねられたサイドテールが、冷たい風に微かに揺れている。

 雪のように白い滑らかな肌。彫刻のように整った完璧な美貌。

 そして――見る者の魂を絶対零度の氷壁に閉じ込めるような、冷徹無比な碧眼。


 帝国警察本庁特別捜査局・第一機動捜査班長、エルネスタ・フォン・ヴァレンタイン警視。


「な、なんだよあんたたち……!」

 トビーは恐怖に膝を震わせながらも、持っていた箒を両手で構え、シオンの作業台を守るように立ちはだかった。

「ここは時計屋だぞ! 土足でズカズカ踏み込んでくるな! 親方に指一本でも触れたら承知しないぞ、この税金泥棒め!」

「トビー、下がりなさい」

 シオンの静かな制止の声が響いた。

 だが、シオンは依然として作業台に向かったまま、作業の手を止めようとしなかった。ピンセットの先でルビーの石を懐中時計の地板のホゾ穴へと正確に落とし込み、小さなドライバーで留め金を固定する。


「時計の修理なら、壁の番号札をお取りになって、そちらの革椅子でお待ちください。現在、ゼンマイ交換の先客が二名ほどおりますので。……お急ぎなら、特急料金を頂戴しますが」


 あまりにも平然とした、日常の接客。

 踏み込んできた四人の大男たちが、侮辱されたと感じて殺気立った。

「貴様! 捜査局の警視閣下の御前であるぞ! その無礼な態度を改め――」

「控えなさい」

 エルネスタの凛とした一言が、部下の怒号をピシャリと遮った。


 エルネスタは手袋を嵌めた手をすっと挙げ、自らシオンの作業台へと歩み寄った。

 軍服のポケットから警察手帳を取り出し、作業台の青いスエードマットの端に、パチンと音を立てて開いた状態で置く。


「帝国警察本庁特別捜査局第一班長、エルネスタ・フォン・ヴァレンタイン警視です。……時計師シオン・アルスター。あなたに、昨夜発生したバローニ侯爵毒殺事件における、殺人共犯および偽証工作の重大容疑がかけられています」


 エルネスタの冷徹な声が工房に響き渡った、まさにその瞬間だった。


 ――ボォォォォン……!

 ――コチ、コチ、ボォォォン……!

 ――ピピピッ、ポッポー! ポッポー!


 工房の壁一面、天井際、棚の上、床に置かれた何百もの時計たちが、一斉に【午後一時ちょうど】の時報を鳴り響かせ始めた。

 重厚な大鐘の重低音、真鍮の鈴の甲高い共鳴、オルゴールの澄んだメロディ、鳩時計の鳴き声。

 あらゆる音階とテンポが幾重にも重なり合い、狭い工房の中を圧倒的な音響の嵐となって包み込む。

 捜査官たちが思わず顔をしかめ、耳を押さえて足元をよろめかせた。


 だが――その凄まじい音の渦の中心で。

 シオンとエルネスタの二人だけは、眉一つ動かさなかった。


 シオンは静かにピンセットを作業台に置き、右目のキズミを外した。

 露わになった端正な顔立ち。黒髪の奥から覗く、深い知性と冷静沈着な光を湛えた琥珀色の瞳。

 青年の静かな炎のような眼差しと、銀髪の令嬢の氷河のような碧眼が――わずか五十センチの至近距離で、初めて真正面から衝突した。

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