第15話:現場に残された極小の時計油~疑惑の視線~
「鑑識員、工具箱をこちらへ。キズミとピンセット、そして高純度アルコール綿を出しなさい」
エルネスタは躊躇なく命じ、自らの両手からぴったりと吸い付くような白革の手袋を外した。
現れたのは、白く細長く、節々の引き締まった美しい指先だった。貴族の令嬢とは思えぬほど、指の腹には硬質なペンダコと、微細な機械を扱い慣れた職人のような鋭利な気配が宿っていた。
彼女はポケットから私物の精密ルーペ――ドイツ製の最高級光学ガラスを用いた、三連式の折りたたみ式キズミを取り出し、右目に装着した。
大時計の側面にある点検窓を開け、上半身を滑り込ませるようにしてムーブメントの深部を覗き込む。
「……」
書斎が静まり返る。
聞こえるのは、時計の振り子が左右に振れる規則正しいチクタク音と、エルネスタの静かで乱れのない呼吸音だけだった。
ギルバートは腕を組み、半信半疑の目で若い女性警視の後ろ姿を睨みつけている。
一方、ジュリアンは喉がカラカラに渇き、背中にじっとりと冷たい汗が張り付くのを感じていた。
(大丈夫だ……落ち着け。あの時計屋の工作は完璧だった。暖炉の熱で伸ばした振り子は、室温の低下と共に完全に元の長さに戻っている。機械の歯車に傷など一つもつけていない。見つかるはずがない……!)
エルネスタの指先が、極細のピンセットを操り、高速で回転する脱進機の周辺へと音もなく伸びた。
真鍮の歯車と青焼きされた鋼の軸受。
その最深部――アンカーの爪が、十五枚の歯を持つガンギ車を小刻みに受け止め、解放している接触面。
「……見つけました」
氷の刃のような声が、静寂を切り裂いた。
「な、なんだと……!? 何を見つけたってんだ!?」
ギルバートが思わず身を乗り出す。
エルネスタはキズミを嵌めたまま、ピンセットの先端を極めて慎重に引き抜いた。
ピンセットの極細の刃先には、肉眼ではほとんど判別できないほどの、【極小の油滴】が一粒、青白く光沢を放ちながら付着していた。
エルネスタは携帯用の石英ガラスプレートの上にその油滴を擦り付け、キズミを外して鼻腔を近づけ、わずかに匂いを嗅いだ。
「機械油です。……ですが、この時計の他の軸受に差されている一般的な鉱物系時計油とは、明らかに粘度も屈折率も異なります」
「時計油……? そんなもん、時計屋が油を差すのは当たり前じゃねえか!」
「ただの時計油ではありません、ギルバート警部」
エルネスタは手袋をはめ直し、石英プレートを光に透かしながら、冷徹な解説を始めた。
「極寒地マッコウクジラの頭部から抽出された最高級精製油に、合成シリコンオリゴマーと、微細な銅系の摩擦低減剤が独自比率で混和されています。常温では極めて高い潤滑性を示しますが――摂氏三十度を超える環境下に置かれると、熱によってシリコン分子が部分架橋を起こし、一時的に粘度指数が急激に跳ね上がる特殊なレオロジー特性を持っています」
「レ、レオ……なんだって!?」
「熱せられると、意図的に摩擦抵抗を増大させ、歯車の回転トルクに微小なブレーキをかける『遅延用特殊潤滑油』です。……さらに、この青白い特有の蛍光反応。帝都広しといえど、この調合を行える職人はただ一人しか存在しません」
エルネスタの碧眼が、冷徹な光を帯びてジュリアンを正面から射抜いた。
「下町『真鍮小路』で古時計の修理を営む、かつて帝国時計工学界の神童と謳われた男――シオン・アルスター。彼の工房独自のオリジナル調合油です」
――ドクン!
ジュリアンの心臓が、激鐘を打ち鳴らしたように跳ね上がった。
顔面から、文字通り潮が引くように血の気が引いていく。唇がガタガタと震え、指先が凍りついたように動かない。
「シ、シオン……!? な、何を仰っているのか、私にはさっぱり……!」
「嘘はおやめなさい、ジュリアン様」
エルネスタの足音が、一歩、ジュリアンへと近づいた。
その瞳には、すでに獲物を追い詰めた猛禽の冷酷な確信が宿っていた。
「私の頭脳には、帝都内の特殊技能資格者および高精密機械職人の全記録が完全に記憶されています。この特殊油は、三年前の帝都博覧会において、シオン・アルスターが特殊時計用として特許申請を出願した組成式と完全に一致します。……ジュリアン様。あなた、昨日か一昨日のうちに、彼をこの部屋に招き入れましたね? この大時計に、何らかの細工を施させるために」
「ち、違う! 断じて違う!」
ジュリアンは上ずった悲鳴のような声を上げ、両手を振り乱した。
「そ、そのシオンという時計屋が昨日ここに来たのは事実だ! だがそれは、大時計の調子が悪かったから、下町の修理屋に頼んで油を差してもらっただけだ! それのどこが罪になるというんだ!? 時計に油を差すことが、父の死と何の関係がある!?」
「昨日、時計屋に油を差させたばかりの時計が、昨夜のあなたの『完璧な不在証明』の唯一の物証となっている。……それを単なる偶然で片付けるほど、特別捜査局は愚かではありません」
エルネスタは冷ややかに言い放ち、ギルバート警部に向き直った。
「ギルバート警部。この屋敷の封鎖とジュリアン様の監視を継続してください。彼の一切の外出および外部との通信を禁じます」
「お、おい警視! あんたはどこへ行く気だ!?」
エルネスタは黒い軍服コートの裾を翻し、一刻の猶予もなく扉へと歩み出した。
その横顔には、冷徹な決意と、知的な好敵手を前にした微かな興奮の閃きが浮かんでいた。
「決まっています。この偽りの時間を組み上げた張本人――時計修理解体工房『クロノス堂』のシオン・アルスターの身柄を確保しに参ります。……彼の口から、この完璧すぎるパズルのカラクリを、すべて吐き出させて見せましょう」
エルネスタの鋭い軍靴の音が、廊下の彼方へと遠ざかっていく。
残された書斎の中、ジュリアンは恐怖と絶望に青ざめ、崩れ落ちるようにチェステーブルに手をついた。
そして――帝都の下町『真鍮小路』へと、特別捜査局の包囲網が猛烈な勢いで迫りつつあった。




