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クロックワーク・アリバイ 〜裏社会の天才時計技師、自分が作った「鉄壁の不在証明」を法廷で解体する〜  作者: 六井求真


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第120話:影の演出家の独白、チェス盤の次なる手

同じ日の夜二十一時。帝都中央駅の広大な操車場を見下ろす、超高級ホテル『メトロポール』最上階のペントハウス。

 柔らかな間接照明に照らされた豪奢なサロンには、蓄音機から流れるクラシックレコードの優美な夜想曲が静かに木霊していた。

 床一面に敷き詰められたペルシャ絨毯の上、巨大な全面ガラス窓の前に立ち、眼下に広がる帝都の夜景を見下ろしていたのは――一人の背の高い貴公子だった。

 漆黒のベルベットタキシードに、真紅のシルクタイ。

 マホガニーの机の上には、昼間まで彼の素顔を覆い隠していた、冷たい金属光沢を放つ銀色の仮面が静かに置かれていた。

 彫刻のように整った白皙の美貌、憂いを帯びた切れ長の黒い瞳、そして口元に浮かぶ甘美で冷酷な微笑。

 ――フェリクス・アルノー。

 十年前、帝都の大時計塔炎上事件の夜に忽然と姿を消し、裏社会で『影の演出家』として君臨する男だった。

 フェリクスは手に持ったバカラグラスの琥珀色の高級ブランデーを優雅に揺らし、夜霧に煙る帝都中央駅の操車場へと冷たい視線を注いでいた。

 照明の下では、明日朝の処女航行に向けて蒸気を吹き上げる漆黒の巨大列車――『大陸横断魔導特急リヴァイアサン号』が、まるで眠れる巨大な鋼鉄の竜のように重厚な黒光りを放っていた。

 背後のオーク材の扉が音もなく開き、黒服に身を包んだ無口な従者が一礼して部屋に入ってきた。


「閣下。警察庁および特別監査委員会の動向についてご報告いたします。ハルトマンは地下取調室にて全容を自白し、失脚。先帝陛下の裏金名簿は警察庁に押収されました。……美術館での公演は、完全にエルロード技師の手によって解体されました」


 従者の報告に、フェリクスは怒るどころか、満足そうに低く喉を鳴らして楽しげに笑った。


「知っているさ。……素晴らしい舞台だったよ。ハルトマンのような私利私欲に塗れた愚物に私の脚本が完全に演じきれるはずもないことは最初から承知の上だったが……まさか、直交ニコル偏光プリズムの迷彩を見抜き、巨大時計の脱進機の遅延工作まで一瞬で看破するとはね。さすがは我が愛弟子、シオン・エルロードだ」


 フェリクスは机の上の大理石のチェス盤の前へと歩み寄った。

 盤上には、精緻に削り出された黒と白の象牙の駒が並んでいた。

 黒のクイーン――ハルトマンを象徴する駒が無残に倒され、その代わりに、白のナイト――シオンを象徴する駒が、盤上の中央へと堂々と進められていた。

 フェリクスは細く白い指先で白のナイトを愛おしそうに撫でた。


「十年ぶりの再会だったが、あいつの瞳は少しも曇っていなかった。恩師クラウス先生の頑迷なまでの職人魂と、狂気じみた工学的知性……すべてが私の記憶のまま、美しく研ぎ澄まされていたよ。……あいつだけだ。この退屈極まりない世界で、私の創り出す完全なる時間の芸術を理解し、対等に解体できる唯一の存在は」


 フェリクスは目を細め、十年前のあの紅蓮の炎の夜を脳裏に蘇らせていた。

 崩れ落ちる大時計塔の瓦礫の中、重傷を負った恩師クラウスは、若きフェリクスに向かって叫んだのだ。

『時間を正しく刻むことこそが、時計師の祈りだ……。憎悪に身を任せて、針を狂わせてはならん……!』

 だが、フェリクスはその祈りを拒絶した。

 神は正しい時間など守ってはくれない。巨悪がのさばり、無垢な命が理不尽に奪われるこの世界において、正しい時計など何の役にも立たない。

 ならば――自らが神となり、悪人どもを欺瞞と罠の舞台に引きずり出し、自滅させる完璧な【脚本(シナリオ)】を紡ぐ演出家となるのだと。


「しかし閣下……リヴァイアサン号の車上には、ヴァレンタイン公爵の差し金により、エルロード技師と公爵令嬢が新婚夫婦を装って乗り込む手筈となっております。計画に支障はございませんか?」


 従者の問いに、フェリクスの黒い瞳が妖しい光を帯びて細められた。


「支障だと? とんでもない。むしろ最高の配役だ。舞台の上の役者が揃わなくては、極上の悲劇も喜劇も始まらないからね」


 フェリクスはチェス盤の横に広げられていた、リヴァイアサン号の詳細な内部構造図に視線を落とした。

 その図面には、一般の設計図には決して描かれていない、車両間の秘密通風孔、魔導蒸気圧のバイパス管、そして特殊な電磁シリンダーの配置が赤インクでびっしりと書き込まれていた。


「十年前、大時計塔を焼き払った真の元凶……軍需財閥クライン重工の総帥ヴォルフガング・クライン。自らの飽くなき金欲のために恩師を謀殺し、世界を新たな戦火で包もうとしたあの男に、本当の時間の裁きを下す時が来たのだ」


 フェリクスの声から甘美な響きが消え、絶対零度の憎悪と狂気が滲み出した。

 彼は白のナイトの隣に、気品ある白のクイーン――エルネスタを模した駒をそっと並べ置いた。


「シオン。お前はあの高貴な令嬢と共に、愛と正義の力で私の脚本を再び解体できるかな? 時速百キロで疾走する鉄の密室……そこから人間が煙のように消え去る奇跡を、お前のその冷徹な論理でどう暴いてみせるのか……。特等席で見物させてもらうよ」


 フェリクスはブランデーグラスをチェス盤の上で掲げ、月明かりに向かって静かに微笑んだ。

 復讐と知能戦の第2幕が、いま静かに幕を開けようとしていた。

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