第119話:偽装新婚旅行の罠、跳ね上がる心拍数
「お、お父様っ!? な、何を仰っているのですか!? 新婚夫婦だなんて、そんな……そんな破廉恥極まりない任務、お受けできるはずがありませんわ!!」
エルネスタは顔を林檎どころか熟れたトマトのように真っ赤に沸騰させ、執務机をバンと叩いて猛抗議した。
だが、百戦錬磨の陸軍元帥は眉一つ動かさず、冷ややかな灰色の瞳で娘を見下ろした。
「何が破廉恥だ。リヴァイアサン号の特等寝台車は、貴族や富豪の社交場だ。単独の男や、身元の怪しい男女の組み合わせはそれだけで保安部の監視対象になる。若き資産家夫婦の避暑旅行という肩書こそが、最も怪しまれずに車内を自由に動き回れる完璧な隠れ蓑なのだ。……それとも何か、貴様は帝国の重大任務よりも、自らの初心な恥じらいを優先するというのか、法務執行官?」
「うっ……! そ、それは……!」
職務の責任感を突かれ、エルネスタは言葉に詰まってぐぬぬと呻き声を上げた。
シオンもまた、額に脂汗を浮かべながら慎重に口を開いた。
「元帥閣下……しかし、私のような下町の職人が貴族の夫を演じるのは、立ち居振る舞いの面で無理があるのでは――」
「心配するな。貴様には帝国一の服飾職人が仕立てた最高級のモーニングスーツと偽造身分証を用意してある。それに、貴様のその冷徹なポーカーフェイスと理屈っぽさは、気難しい貴族の学者肌そのものだ。問題など何一つない」
元帥は反論の余地を一切許さぬ冷徹さで、机の上に二枚の豪奢な金箔押しの乗車券を滑らせた。
――『大陸横断特急リヴァイアサン号・特等寝台個室・七号室』。
チケットの但し書きには、無情にも『ダブルサイズ二段寝台・専用洗面所付き個室』の文字がくっきりと印刷されていた。
それを見たエルネスタは「ひゃぅっ……!?」と小さく悲鳴を上げて後退り、自分の両手で真っ赤になった顔を覆ってしまった。
元帥はさらに、机の引き出しから小さな黒いベルベットの小箱を取り出し、シオンへと手渡した。
「念のために持っていけ。偽装夫婦であることを証明するための小道具だ」
シオンが箱を開けると、そこには白金で鍛造された二つのシンプルな指輪――結婚指輪が収められていた。
元帥はニヤリと不敵な笑みを浮かべ、二人に背を向けた。
「明朝九時、帝都中央駅第一プラットホームにて乗車せよ。……失敗は許さんぞ」
* * *
警察庁本部の長い大理石の廊下を、シオンとエルネスタの二人は並んで歩いていた。
普段なら事件の捜査方針や暗号の構造について白熱した議論を交わしているはずの二人の間に、息が詰まるほどの沈黙が重く垂れ込めていた。
お互いに横を見ることができず、視線は前方の床の一点に固定されている。
エルネスタの白い指先が、制服のサーベルの帯を無意味にいじり回していた。
やがて、耐えかねたようにエルネスタが蚊の鳴くような声で口を開いた。
「あ、あの……シオン殿」
「……何でしょう、エルネスタ執行官」
「お父様の命令とはいえ……その、夫婦を演じることになってしまい……ご、ごめんなさい。私のような者が妻の役など、あなたにとってはご迷惑でしょうけれど……」
「迷惑などということは、決してありません」
シオンは足を止めず、前を向いたまま静かに、しかしはっきりとした声で答えた。
「むしろ、私のような下町の人間が、帝国の至宝であるあなたのような気高く美しい方の夫を騙ることこそ、不敬極まりない大罪だと恐縮しています。……ですが、これは国家の危機を防ぐための偽装任務です。割り切って、完璧に演じ切りましょう」
「え、ええ……! そうですわよね! 国家の任務ですものね! わ、私、軍人の娘として、いかなる潜入捜査であろうと完璧に任務を遂行してみせますわ!」
エルネスタは無理に胸を張って強がってみせたが、その耳たぶは火傷しそうなほどに赤く染まったままだった。
シオンは立ち止まり、一つ咳払いをすると、ポケットから先ほどの指輪の箱を取り出した。
「……周囲の目を欺くためには、まずこの指輪を装着し、指先の違和感をなくしておく必要があります。エルネスタ、左手を出してください」
「えっ……!? い、今ここで、ですの……!?」
「本番で指輪の着脱に手間取っては、偽装が露呈しますから」
シオンは極めて真面目な顔で、白金の細いリングを取り出した。
エルネスタはおずおずと、震える左手を差し出した。
シオンの指先が、エルネスタの華奢で柔らかな左手の薬指に触れる。
ひんやりとした金属の感触と共に、リングが根元まで滑らかに収まった。
触れ合う指先の熱。エルネスタは息を呑み、心臓が跳ね上がるのを止められなかった。
「……サイズはぴったりですね。それから、呼び名です。『シオン殿』や『エルネスタ執行官』という呼び方は、新婚夫婦としてはあまりにも不自然極まりない」
「う……やはり、呼び名も変えねばなりませんのね……」
「ええ。周囲に人がいる場では、私はあなたのことを……『エルネスタ』、あるいは『愛しい人』と呼びます。そして、あなたは私のことを……『シオン』、もしくは『あなた』と……」
「うぐぅっ……!?」
エルネスタは致命傷を負ったかのように胸を押さえ、その場にうずくまりそうになった。
「あ、あなた……っ!? し、シオンを……呼び捨て……!? む、無理ですわ! そんな恥ずかしいこと、口が裂けても言えませんわっ!!」
「訓練です、エルネスタ。さあ、一度呼んでみてください」
「うぅぅ……シ、シ……シオン……あ、あなた……っ」
消え入りそうな声で呟いた瞬間、エルネスタは恥ずかしさのあまり頭から湯気を噴き出し、両手で顔を覆ってしゃがみ込んでしまった。
そのあまりに愛らしい姿に、シオンの心臓もまた、かつてない異常な拍動を刻んでいた。




