第117話:警察庁の激震、ヴァレンタイン公爵の呼び出し
午前十時。帝都の心臓部にそびえる帝国警察庁本部・最上階。
重厚なオーク材の二重扉に守られた『最高治安戦略会議室』の中は、真冬の氷河のような冷徹な威圧感に支配されていた。
部屋の壁面には歴代の軍司令官や内務卿の重厚な油彩肖像画が並び、巨大なマホガニーの円卓の最奥、真鍮の鷲が彫られた高座に腰を下ろしていたのは――一人の初老の巨漢だった。
ヴィクター・ヴァレンタイン公爵。
エルネスタの実父であり、帝国陸軍元帥にして国家治安評議会の議長。
五十を過ぎているとは思えぬ鋼のように鍛え上げられた巨大な体躯、顔の右側に深く走る歴戦の刀傷、そして猛禽を思わせる鋭利な銀灰色の眼光。
彼が指先で机をトンと叩くだけで、周囲に控える警視総監や憲兵隊司令官たちが青ざめて直立不動になるほどの、帝国屈指の絶対的権力者だった。
案内されたシオンは、ギルバート警部と共に部屋の中央へと歩み出た。
ギルバートは公爵の凄まじい威圧感のあまり膝をガタガタと震わせていたが、シオンはいつもの落ち着いた足取りで進み、元帥の正面で直立して静かに一礼した。
「時計技師、シオン・エルロードです。お呼び出しと伺い、参上いたしました」
元帥の氷のような視線が、シオンの頭の先から爪先までを値踏みするように舐めた。
重苦しい沈黙が部屋の空気を押し潰す。
やがて、元帥の低く地響きのような声が会議室に轟いた。
「貴様が、下町の時計屋シオンか。……我が愚娘エルネスタを手玉に取り、警察組織を引っ掻き回した挙げ句、法廷で貴族院の特捜監査官を叩き潰したという小僧は」
周囲の将官たちが息を呑む。
常人であれば、その一喝だけで恐怖に平伏し、許しを乞うところだった。
だが、シオンの藍色の瞳には、揺らぎ一つなかった。
シオンは静かに口を開いた。
「手玉に取った覚えはありません。私はただ、不当な冤罪を晴らし、狂わされた時間の歯車を正しただけです。そして何より――エルネスタ執行官の気高く清廉な正義の意志に、背中を預けたにすぎません」
物怖じ一つしない凛とした返答。
元帥は片眉をピクリと上げ、シオンを数秒間無言で見据えた。
そして――ふっ、と短く鼻を鳴らした。
「口の減らん奴だ。……だが、娘が惚れ込むだけの度胸と気骨はあるようだな」
「なっ……!?」
後ろのギルバート警部が目を丸くして顎を落とした。
元帥は机の上の革張りの分厚いファイルを一冊、シオンの前へと放り出した。
「貴様を罪に問うために呼んだのではない。むしろ逆だ。帝国司法省および軍部は、今回の美術館事件における貴様の卓越した科学的捜査能力と、国家機密奪還の功績を高く評価した。……これを受け取るがいい」
シオンがファイルを開くと、そこには帝国皇帝の親書と共に、純金の鷲の紋章が刻まれた特務身分証が挟まれていた。
――『帝国警察庁・特命最高捜査顧問』。
「これは……?」
「帝国全土の警察機関、軍警察、ならびに司法記録への無制限アクセス権を与える特命顧問の辞令だ。貴様のその異常な頭脳を、帝国の治安のために正式に借り受ける」
元帥は腕を組み、冷徹な目を細めた。
「だが、勘違いするなよ、時計屋。……公私の分別は弁えてもらう。もし貴様が娘を泣かせるような真似をしてみろ。軍の第一砲兵旅団を動員し、貴様の下町の工房ごと灰塵に帰してくれるわ」
「……肝に銘じておきます」
不器用すぎる父親の威嚇に、シオンは苦笑いを噛み殺しながら頭を下げた。
その時、元帥の表情からわずかな冗談の色すら消え去り、戦場における指揮官の厳冬の険しさが戻った。
「用件はそれだけではない。シオン・エルロード。……貴様を呼んだ真の理由は、国家の存亡に関わる、次なる超巨大な危機が発生したからだ」
元帥は立ち上がり、壁に掛けられた巨大な帝国全土の鉄道路線図を指し示した。
その赤く太い幹線ルートの上に、重々しい文字が記されていた。
――『大陸横断魔導特急リヴァイアサン号』。
「美術館事件で暴かれた、十年前の大時計塔炎上事件の資金源……軍需財閥『クライン重工』。その現総帥であるヴォルフガング・クライン社長が、今週末、極秘の軍事会談のためにこの特急の最上階貴賓車に乗車する。……だが、今朝未明、帝国警察庁に戦慄すべき予告状が届いたのだ」
元帥が机の上に放り出した一枚の黒い便箋。そこには、金色のインクで優美な筆跡が躍っていた。
『走行中のリヴァイアサン号より、クライン社長の命と時間を消滅させる――影の演出家』
シオンは手袋をはめ、その便箋を指先で持ち上げて光に透かした。
わずか数秒の観察で、シオンの頭脳は夥しい情報を引き出していた。
「……紙質は、北方帝国領でしか生産されない最高級の針葉樹パルプ紙。金色のインクには、極微量の真鍮粉末と鉱物性グリセリンが混入されています。インクの揮発速度から逆算して、この予告状が書かれたのは昨夜の二十一時前後……場所は帝都中央駅の半径五百メートル以内です」
「ほう……紙とインクだけでそこまで見抜くか」
元帥が感嘆の声を漏らし、顎を撫でた。
「演出家……! フェリクスめ、早くも次の舞台を用意したというのか……!」
シオンの藍色の瞳が、冷徹な炎を宿して見開かれた。
時速百キロで疾走する巨大な装甲特急という、閉ざされた鉄の密室。
十年前の火災の元凶であるクライン重工と、それを狙う影の演出家。
止まることのない運命の秒針が、新たな戦いの汽笛を鳴り響かせようとしていた。




