第116話:帝都の朝霧、別れの朝のティーカップ
翌朝、午前八時。
帝都の街並みは、本格的な秋の到来を告げる乳白色の深い朝霧に包まれていた。
ひんやりとした朝の澄んだ大気が石畳の通りを覆う中、クロノス堂の工房には、香ばしく焼き上げられたライ麦トーストと、ハーブソーセージ、そして湯気を立てるアールグレイの芳醇な香りが満ちていた。
三人は昨夜の残りのスープと共に温かな朝食を平らげ、名残惜しい時間を噛み締めていた。
出立の直前、姿見の前で身なりを整えていたシオンの背後に、エルネスタがそっと忍び寄った。
彼女はシオンの首元に目を留めると、小さく溜息をついてその細い指先を伸ばした。
「もう……シオン殿、ネクタイが少し右に傾いていますわ」
「あ……すみません。いつも適当に結んでいるもので」
「身だしなみも時計の歯車と同じですわ。ほんのコンマ数ミリの歪みが、全体の品格を損ねてしまいますのよ」
エルネスタは真剣な眼差しでシオンのネクタイを解き、至近距離で手際よく結び直していった。
彼女の白い指先がシオンの鎖骨のあたりに触れ、甘い石鹸と香水の香りがシオンの鼻腔をくすぐる。
シオンは思わず息を止め、胸の鼓動が速くなるのを必死に抑えていた。
仕上げにネクタイピンをカチリと留めると、エルネスタは満足そうに微笑み、上目遣いにシオンの瞳を覗き込んだ。
「よし、完璧ですわ。……帝都一の時計師にふさわしい、凛々しいお姿になりました」
「……あ、ありがとうございます、エルネスタ執行官」
「ふふっ。どういたしまして」
そんな二人の甘やかな空気を壊すように、表の通りからパッカパッカと蹄の音が響いてきた。
下町の静かな路地に、クロノス堂の前に停められた一台の豪奢な馬車が静かに佇んでいた。
黒漆で磨き上げられた重厚な車体には、帝国の名門貴族の頂点を示す『純金の百合とツタの紋章』が誇らしげに輝いている。ヴァレンタイン公爵家の迎えの馬車だった。
店の扉が開き、正装の軍服に身を包んだエルネスタが、背筋を凛と伸ばして外へと出てきた。
仕立ての良い漆黒の上着に純白の飾緒、腰には銀のサーベル。
昨夜の愛らしく恥じらう少女の面影を心の奥に封印し、帝国の法と秩序を守る気高き法務執行官の姿へと戻っていた。
だが、その胸元のポケットからは、銀色の懐中時計の細い鎖が上品に揺れ、チクタクと力強い命の鼓動を彼女の胸に刻み続けていた。
その後ろから、トランクを手にしたシオンと、目を真っ赤に腫らしたトビーが付き従って出てくる。
「お姉ちゃん……本当に帰っちゃうんだね……」
トビーがたまらず駆け寄り、エルネスタの軍服の腰回りにぎゅっと抱きついた。
「オイラ、お姉ちゃんと暮らせてすっげえ楽しかったよ……! ご飯の取り合いも、剣術の稽古も、勉強教えてもらったのも……全部楽しかったのに……!」
「トビー君……」
エルネスタは優しく微笑むと、膝を折ってトビーと目線を合わせ、その癖毛の頭を大きな愛を込めて撫でた。
「泣かないで、トビー君。お別れではありませんわ。公爵邸に戻っても、私は非番の日には必ず下町へ足を運びます。また一緒に美味しい牛肉鍋を食べましょう。……それまで、シオン殿の食事や体調をしっかり支えてあげるのよ? 約束ですわ」
「……うん! オイラ、親方の右腕だからな! 絶対約束だぞ!」
トビーが涙を袖で力強く拭い、元気よく頷いた。
エルネスタは立ち上がり、数歩離れて静かに見守っていたシオンの前へと歩み寄った。
朝霧の中、二人の視線が真っ直ぐに交差する。
エルネスタは胸に手を当て、完璧にして美しい敬礼を捧げた。
「シオン・エルロード殿。今回の国家機密に関わる共同捜査、あなたの類まれなる知性と誠実さに、帝国法務執行官として心からの敬意と謝意を捧げます。……あなたがいなければ、帝国の司法は暗黒に呑まれていましたわ」
「礼には及びません。あなたの不屈の覚悟と正義の剣があったからこそ、私は安心して時計の修理に専念できました。……お気をつけて、エルネスタ執行官」
シオンもまた、静かに頭を下げて礼を返した。
御者がトランクを荷台へと積み込み、馬車の重い扉を開けた。
エルネスタは馬車のステップに足をかけ、車内へと乗り込もうとした。
だが――扉が閉まる直前、彼女はくるりと振り返り、窓から身を乗り出した。
その顔には、先ほどまでの厳格な執行官の仮面を脱ぎ捨てた、極上の悪戯っぽい微笑みが浮かんでいた。
「あ、それからシオン殿! 大切なことを言い忘れていましたわ!」
「……? 何でしょう」
シオンが首を傾げると、エルネスタは胸元の銀の懐中時計を指先で掲げてみせた。
「この時計の調子が狂ったら、帝都の誰にも触らせず、必ずあなたに診てもらいますからね! ……私の胸の時計を修理できるのは、生涯シオン・エルロード……世界であなた一人だけですのよ!」
パタン、と馬車の扉が閉まり、御者が手綱を弾いた。
ヒヒィン、と馬が嘶き、黒塗りの馬車は朝霧の立ち込める石畳を蹴立てて滑らかに走り去っていった。
取り残されたシオンは、しばらくその場に呆然と立ち尽くしていた。
やがて、彼女の言葉の意味――『私の胸の鼓動を動かせるのは、あなただけ』という不器用で大胆な愛の告白がじわじわと頭の中で理解されるにつれ――シオンの端正な顔は、額から耳の先まで一気に真っ赤に沸騰した。
シオンは片手で口元を覆い、天を仰いで深く息を吐き出した。
「……あのお嬢さんには、やはり敵わないな」
「ひゅ〜っ! 親方、顔が茹でダコみたいに真っ赤だぜ! 完全に一本取られたな!」
トビーがケラケラと笑いながら冷やかした、その時だった。
通りの向こうから、激しい砂煙を巻き上げて猛スピードで疾走してくる警察の蒸気パトロール車が、急ブレーキをかけてクロノス堂の前に横付けされた。
ギィィィッ!!
車内から転がり出るように降りてきたのは、コートのボタンを掛け違え、咥え煙草を落としそうになりながら血相を変えたギルバート警部だった。
「シオン君! シオン君はいねえかぁっ!!」
「ギルバート警部? 一体どうしたのです、そんなに慌てて」
「大変なんだよ! 至急、警察庁の最高幹部会議室へ来てくれ! ヴァレンタイン元帥……エルネスタのお嬢の親父上直々の特命呼び出しだぁっ!!」




