第115話:二人きりの工房、触れ合う指先と約束
深夜二十三時。
満腹になり、すっかり温まったトビーは、居間の大きな革張りソファの上で、シオンの厚手のウール毛布に包まりながらすやすやと心地よい寝息を立てていた。
暖炉の薪も静かな紅蓮の熾火となり、店内に響くのは、壁一面の掛け時計たちが規則正しく刻む秒針の音だけだった。
チク、タク、チク、タク。
その静寂の中、奥の作業場には、一本のオイルランプの柔らかな光が灯っていた。
机に向かって座るシオンの隣に、エルネスタが足音を忍ばせて歩み寄ってきた。
彼女はすでに上着を脱ぎ、糊のきいた白いブラウス姿になっていた。肩にかかる銀色の髪が、ランプの炎に透けて淡い黄金色の光輪を描いている。
「トビー君、本当に気持ちよさそうに眠ってしまいましたわね」
「ええ。子供の無邪気な寝顔を見ていると、この平穏を守り抜けて本当によかったと思います」
シオンは作業台の木製引き出しから、深紅のベルベットが敷かれた小さな木箱を丁寧に取り出した。
そして、蓋を開けてエルネスタの前に差し出した。
「エルネスタ。これを、お返しします」
箱の中に収められていたのは――白銀の細い鎖がつけられた、銀無垢のクラシックな懐中時計だった。
エルネスタが亡き母から受け継いだ、かけがえのない宝物。
かつて第1章の事件の終わり、シオンが十年の眠りから奇跡のように蘇らせ、彼女のポケットへと密かに滑り込ませた、あの運命の時計だった。
だが今、その文字盤の上で、職人の手によって極限まで青く焼き入れられたブルースチールの秒針は、以前にも増して力強く、清らかな調べを刻んでいた。
エルネスタは息を呑み、震える指先でその時計をそっと持ち上げた。
「……私の、時計……。シオン殿、また調整してくださったの?」
「ええ。月光亭の地下金庫破りや、昨夜の雨の中の激しい逃走劇……あなたの胸元で、強い衝撃や微細な魔導磁気の影響を受けていましたからね。わずかな姿勢差による狂いが生じないよう、ハルトマンの捜査の合間に、特殊な耐磁シールドを施し、完全な再オーバーホールを行いました。温度変化による膨張を防ぐため、テンプの輪には最新のバイメタル補正を施し、チラネジの重量バランスもミクロン単位で微調整してあります。日差は完全に零点五秒以内です」
シオンの専門的な解説を聞きながら、エルネスタはその時計の裏蓋に目を留めた。
第1章で刻まれていた愛しい筆記体――『To Ernesta, Time begins anew.(エルネスタへ、時は再び動き出す)』の文字。
そのすぐ隣、滑らかな純銀のケースの背面に、シオンの神業の彫刻刀によって、美しい野薔薇のレリーフと共に、端正なラテン語の銘文が新たに深く追刻されていた。
――『Veritas nunquam perit(真実は、決して朽ち果てない)』。
それは、エルネスタがどんな巨悪や権力の圧力にも屈せず、自らの命を賭してシオンの無実と帝国の正義を信じ抜いた、その高潔な魂への永遠の賛辞だった。
「……真実は、決して朽ち果てない……」
エルネスタはその文字を指の腹で優しくなぞった。
冷たい銀の感触のはずなのに、時計からはシオンの指先の温もりと、彼が込めた誠実な祈りが、二重の重みとなって脈打つように伝わってくる。
エルネスタのアイスブルーの瞳に、大粒の涙がじわりと滲み出し、彼女は時計を両手で包み込んで、自らの胸元へと強く押し当てた。
「ありがとう……ありがとう、シオン殿……。前回の事件で私の止まっていた時間を動かしてくれただけでなく……この過酷な戦いの中で、私の誇りまでこうして守り抜いてくださるなんて……。私、生涯……生涯この時計を手放しませんわ」
「時計師として、当然のアフターケアをしたまでです」
「もう、素直じゃありませんわね。あなたが直してくれたのは、ただの機械ではありません。私の心……あなたと共に正義を貫いたこの魂の鼓動を、あなたがいつだって正しい位置へと戻してくださるのです」
エルネスタは潤んだ瞳を上げ、シオンの藍色の瞳を真っ直ぐに見つめた。
彼女は一歩、シオンへと近づいた。
触れ合えば互いの甘い吐息がかかるほどの至近距離。
エルネスタはおずおずと右手を伸ばし、シオンの作業服の袖を、すがるように小さな指でぎゅっと握りしめた。
「ねえ、シオン……」
その声は、震えていた。執行官としての威厳を脱ぎ捨てた、一人の恋する少女の素顔だった。
「明日、公爵邸へ戻っても……私、またここへ来てもよろしいかしら? 事件の捜査ではなく……ただ、あなたとお茶を飲むために。あなたの淹れてくれた紅茶を飲んで、あなたの声を聞くために……ここへ会いに来てもよろしくて?」
シオンの胸の奥で、心臓が時計の脱進機のように激しく跳ね上がった。
彼は作業机の上に置かれたエルネスタの震える左手の上に、自らの大きく無骨な手をそっと重ねた。
指先が触れ合い、互いの体温が溶け合うように伝わる。
「歓迎しますよ、エルネスタ。……あなたのためのベルガモットの茶葉は、いつ何時あなたが訪ねてきてもいいように、常に最高のものを用意しておきますから」
「……シオン……」
エルネスタの顔がカッと紅潮し、二人の顔が吸い寄せられるようにゆっくりと近づいていく。
互いの睫毛が触れ合いそうな、あと数センチの距離――。
その時、居間のソファから「んがぁっ……お肉のおかわりぃ……」とトビーの間の抜けた寝言が響き、二人は弾かれたようにパッと飛び退いた。
顔を真っ赤にして背を向け合う二人。
しかし、二人の触れ合った指先に残る熱い温もりは、いつまでも消えることなく灯り続けていた。




